照心洗心録

安岡正篤、中村天風などから学んだことをまとめています。

3.移り行く価値観

「常識というものは、世間一般に信じられているほどの根拠をもたない」

アルベルト・アインシュタイン

 

現代の学校教育では、いかに学力を上げるかが重要視されているので、 個性を重んじるような授業は行われていません。

効率面を重視して、 カリキュラムに沿った授業が一律に行われます。

そして、現代の科学水準に見合った知識を機械的に詰め込まれるのです。

そのような教育を受けてきた現代人にとって、矛盾を受け入れることは容易ではありません。

数式などで論理的に説明できないことは、納得ができなくなるのです。

大学を出る頃には、論理的に正誤を判断する機械のようになってしまいます。

しかし現実の世界は、論理的な思考では解決できない問題が数多く生じます。

 

現在も科学は発展途中であり、科学は常に正しいとは限りません。

現代科学でもわからないことが、まだまだ数多くあります。

ほんの数十年前まで、医者は病気をした患者に、肉を多めに食べさせていました。

それが当時の常識だったのですが、今では病人に消化の良い物を食べさせるのが当たり前になっています。

当時は、消化よりも栄養のことを第一に考えていたのです。

時が経つと、常識はこのように変わっていきます。

 

昔から言い伝えられてきた民間療法などが、現代になって科学的に効果が証明されることがあります。

仏教やヨガなどで行われていた瞑想が、現代では西洋の医療に取り入れられています。

科学的に証明される前は見向きもされなかったものが、科学的に証明されるだけで取り沙汰されるようになります。

本当ならば、科学的に証明されているかどうかは重要でなく、その本質と向き合うことが重要なのです。

しかし学校教育を終えて、社会に出る頃には、誰もが科学を信奉する信者のようになってしまうのです。

 

現代のように何でも論理的に考えるようになったことが、現代がストレス社会になってしまった要因の一つかもしれません。

論理だけで物事を考えると、人情や思いやりは失われ、機械のように損得だけを考えるようになります。

しかし、人の心は機械ではありません。

無理に論理的な思考を続けていると、自然な感情が抑圧されて、精神に大きな負担がかかってしまいます。

 

時代が変われば、価値観は大きく変わります。

現代のように文明が発達する前は、人間は弱肉強食の世界で生きており、強さが正義であり、人殺しは悪ではありませんでした。

数百年前までは、自分の出世のために、親族を殺すことも珍しいことではありませんでした。

源頼朝も、足利尊氏も、織田信長も、兄弟を死に追いやっています。

現代の政治家が出世のために兄弟を殺したとなれば、大ニュースになって、政治生命は終わるでしょう。

 

文明が発達する前の人類にとって、世界は未知のことばかりであり、自分たちが理解できないことは、天や神などの目に見えない存在によって、引き起こされていると考えました。

人間は未知のものを恐れるので、無理矢理にでも理由をつけて、安心しようとしたのです。

そのようにして、世界各地に神話が生まれていきました。

雷は、神鳴りが語源とされており、神が雷を鳴らしていると信じられていたのです。

 

古い時代の権力者たちは、民を効率よく支配するために、神の存在を利用して、民に同じ価値観を持たせようとしました。

神の名を語って、民に自分の言うことを信じさせたのです。

宗教について考えるときは、儀式的な神への信仰と教義を別に考えなくてはいけません。

人間の思索によって導き出された教義と、未知へ恐怖から生み出されたの神の存在が、組み合わされて宗教はできあがったのです。

そして宗教は、民を支配するために利用され、教育によって広められていきました。

現代の教育も、誰かにとって都合の良いことが広められているのかもしれません。

 

人は確かなものを求めますが、価値観は時代と共に変わっていきます。

時代によって、善悪の基準も変わっていくのです。

なので、時代の価値観に左右されない軸となるものを、過去の歴史から学んで、自分の中に作っていかなくてはなりません。

しかし、現代の義務教育でそれを学ぶことはできません。

 

人の常識も、時代と共に変わっていきます。

常識とは、その時代の人々が作ったルールにすぎないのです。

時が経っても、いつまでも変わらないルールを真理といいます。

論理、物理など理はたくさんありますが、真理はそのどれにも通じる宇宙法則なのです。

それぞれの理は、互いに矛盾することがあるかもしれませんが、真理はその矛盾ごと包容します。

だから、私たちは常識よりも、まずは真理を知らなければなりません。

 

真理は一つであっても、それを説明する方法は一つではありません。

キリスト教や仏教、ヒンドゥー教などのさまざまな宗教も、それぞれ教え方は違いますが、それは真理を違う角度から説明しているだけであり、本質は変わらないのです。

宗教には、正しいも間違いもありません。

それぞれの人が、自分の価値観を持つことと同じです。

中国唐代の臨済宗開祖である臨済義玄の言行をまとめた「臨済録」に、「随所に主となれば、立つところみな真なり」という言葉があります。

これを訳すと、「そこがどこであろうと主体性を持っているなら、そこは正しい場所になる」という意味になります。

真剣に導き出した答えはどれも正しく、人によって出した答えが違っても、そこに優劣は存在しません。

それは、人の個性によるもので、正誤はないのです。

重要なのは、主体性を持っているかどうかであり、自分が自分の人生の主人公になっているかどうかなのです。