心を照らす

安岡正篤、中村天風などから学んだことをまとめています。

十四 五つの心

「理性心で本能心が統御できるならば、何も人生というものは苦労する必要はありゃしないんだよ」

中村天風 

 

なにかを考えると、心が動くのを感じます。楽しかった記憶を思い出せば、その時の情景が浮かんでくるはずです。生物は進化するにつれて、その心の世界を広げてきました。その結果、人間の心の世界は宇宙のように果てしなく広がりました。これは、人間の想像力が無限であることを示しています。

 

人間は心の世界から、さまざまなものを生み出してきました。実用的なものだけでなく、芸術作品もそうです。人間の芸術作品には、人間をテーマにしたものが多くありますよね。それは、人間が自分の姿を表現しようとしたものです。同じように、宇宙も自らを表現するために、心を生み出したのかもしれません。生物の進化とともに心の世界は広がっていき、人類の誕生によって心は一つの完成を迎えたのかもしれません。

 

「分かる」という言葉の語源が「分ける」であることから、人間は物事を分けることで理解を深めてきました。大学でも、学科や学部が細かく分かれていますよね。人類は研究対象を細分化し、専門的に調べることで、科学を発展させてきたのです。

人類が物事を細分化して理解したように、心についても分けて考えてみましょう。心はその働きによって、物質心、植物心、本能心、理性心、霊性心の五つに分けることができます。その中で、物質心と植物心は意識の上に現れないため、その存在を直接感じることはありません。

 

物質心は生物だけでなく無生物にも備わっているものです。形あるものすべてが物質心を持っていることになります。無生物が心を持つと聞くと不思議に思うかもしれませんが、心とは「気の動き」を指すため、すべての物体が何らかの心を持っているのです。

物質心の役割は、物体の元となる気が分散しないようにすることです。気体は自由に広がる性質がありますが、それを一箇所にまとめているのが物質心です。太陽の重力が他の惑星を引き寄せ、太陽系を形成しているように、物質心が気をまとめることで、物体は形を保つことができるのです。

 

植物心はすべての生物が持っており、生物が生きていくために必要な基礎的な働きを担っています。人間の場合、酸素を血液で全身に運ぶことや食べ物を消化して排泄すること、恒常性を維持することなどが植物心の働きになります。

恒常性とは、体の内部の環境を一定に保とうとする仕組みのことです。例えば、寒い場所では体温を上げようとし、出血すれば血を止めようとします。

私たちが意識しなくても心臓が鼓動し、肺が呼吸を続けているのは、植物心が自律神経を働かせているからです。植物も植物心によって呼吸や光合成を行うことで生きています。

 

本能心や理性心は、その名の通り本能や理性を生みだします。どちらも意識にのぼるので、その存在を感じることができます。本能心はすべての動物が持ち、理性心は人類だけが持っています。 

本能心は、動物が自然界で生き残るために生まれた心です。恐怖や不安、怒り、喜びといった感情や、食欲、性欲、睡眠欲といった欲求を生み出します。また、視覚や聴覚、痛覚などの感覚も本能心の働きによって生じます。

恐怖や不安を感じることで、動物は危険を避け、怒りによって外敵と戦うことができます。食欲があるから必要なエネルギーを摂取でき、性欲があるから子孫を残せるのです。これらはすべて、生きるためには欠かせないものです。

欲求が満たされると、動物は喜びを感じます。そして、その喜びを再び得たいという思いが、困難や障害に立ち向かう原動力になります。また、痛みを感じることで体の異常に気づき、危険を避けることができます。もし痛覚がなければ、体の異常に気づかず、命の危険に直面することになるでしょう。

本能心は生きるために不可欠ですが、人間は時にそれに振り回されてしまいます。本能心からは権力欲や金銭欲などの欲が生まれ、それが原因で争いが起こることがあります。それが原因で、戦争にまで発展することもあるのです。また、欲求をうまくコントロールできないと、アルコール中毒やギャンブル中毒、薬物中毒といった依存症に陥ることもあります。

本能心による感情は、自分と対象の一対一の関係から生まれます。

 

現代社会では、物理的に敵と戦う機会がほとんどなくなり、本能心はそれほど必要とはされなくなりました。感情のままに生きることは好ましくないとされ、感情を抑えて生きることが求められます。しかし、強い怒りや不安を抑え続ければ、精神が疲弊してしまいます。現代にうつ病神経症が増えているのは、感情の抑制を強いられる社会に原因があるのかもしれません。

 

理性心は人類だけが持つもので、善悪や正誤を判断し、本能心を抑える働きをします。人が反省したり、良心の呵責に苦しんだりするのは、理性心があるからです。善悪の概念がなければ、人は自分の行動を振り返り、後悔することもありません。理性心があるからこそ、人は困難に耐え、苦しくても正しいと信じる道を進むことができます。本能心は困難を避けようとしますが、理性心がそれを抑えることで、人は困難に立ち向かうことができるのです。

理性心は、自分や対象を第三者の視点でとらえます。他者の行動も「自分にとってどうか」ではなく、「他者から見てどうか」という観点から判断します。

 

本能心と理性心はしばしば対立し、葛藤を生み出します。本能心は、自分の快・不快や損得に基づいて動きますが、理性心は社会的な視点を持ち、客観的に物事をとらえようとします。しかし、理性心の判断もその時代の価値観や環境に左右されるため、絶対的なものではありません。

 

心の中にある精神世界において、本能心は動物、理性心は人間にたとえられます。精神世界の状態はそのまま性格に反映されるため、攻撃的な人は、心の中に獰猛な肉食獣を飼っています。正義感の強い人は、心の中で人間が動物をうまく抑えているのです。

リスのような臆病な動物もいるため、引っ込み思案だからといって理性的であるとは限りません。

イライラしている人の精神世界では、心の中の肉食獣が暴れて回っていて、不安にとらわれている人は、心の中の草食動物が恐怖から逃げ回っているのです。

自律神経を整える植物を荒らさないよう、動物を上手に手懐けなければなりません。また、人間がくよくよと悩んでいるなら、たまには気分転換をさせましょう。

 

本能心は「体」に基づき、体を守るために働きます。一方、理性心は「心」に基づき、心が納得できるように善悪や正誤を判断し、本能心を抑えます。そして、霊性心は「霊魂」に基づき、全体の秩序や調和を保つように働きます。霊性心は個の視点を超え、全体が向上するように導くのです。

霊性心は、正誤を判断する理性すらも俯瞰し、その場の感情に左右されることなく、物事を広くとらえます。本能心は自分と対象という二次元的な視点から生まれ、理性心はそれを見つめる第三者の視点から生まれます。そして、霊性心は時の流れや個の立場に縛られない、広い視点から生まれます。

霊性心は、全体の調和を第一に考える、広い視点を持ちます。たとえるなら、子供たち全体の成長を見守り、園内全体を大切にする保育園の園長先生のような存在です。

 

おすすめ書籍

中村天風「心に成功の炎を」

十三 人類の責任

「とにかく人間というものは、栄えようと思ったならば、まず何よりも根に返らなければいけない」

安岡正篤

 

植物が成長するためには、大きく分けて二つの力が必要になります。一つは、枝や葉を伸ばし、花や果実をつける「分化・発展の力」。もう一つは、大地に根を張り、幹を太くする「統一・含蓄の力」です。この原理は植物に限らず、あらゆるものに当てはまります。 

現代の人類を見ると、分化発展の力が過剰になり、統一含蓄の力が不足しているように感じられます。植物の根幹が育っていないのに枝や茎が必要以上に伸びることを徒長と言いますが、徒長した植物は病弱・虚弱になり、健全に育たなくなります。建物も土台となる基礎工事がしっかりしてないと、地震などで簡単に倒壊してしまいます。どんなものでも、まず大切なのは根幹を強くして、しっかりとした基礎を作ることなのです。

 

現代は文明の発展によって、地球の資源が急速に消費され、自然環境の汚染が深刻化しています。人類の便利な生活の代償として、貴重な自然が失われて続けているのです。自然環境は、すべての生物の生命を支える根幹です。これ以上の破壊を食い止めるには、一刻も早く根本的な対策を講じなければなりません。さもなければ、地球環境は取り返しのつかない危機に陥るでしょう。

 

地球上で、人類以外の生物が地球環境を破壊したり、文明を築いたりしたことはありません。では、なぜ人類だけが特別な能力を得たのでしょうか。その理由は、人類が他の生物のように特定の能力に特化しなかったことにあります。何かに特化すれば、その分多様性が失われ、成長の可能性が狭まってしまうのです。これは個人にもあてはまり、人間は生まれたときに最も多くの可能性を持ち、歳を重ねるにつれてそれは狭まっていきます。そういう意味では、大学に入って専門的な知識を身につけた人よりも、定職に就かずにぶらぶらしている人のほうが、より多くの可能性を秘めていると言えるかもしれません。

たとえば、エビやカニなどの甲殻類は、固い殻によって身を守ることができますが、その殻が成長を妨げる原因にもなります。鳥類は空を飛べますが、その代償として両腕を自由に使うことができません。一方で、人類は外骨格も持たず、空を飛ぶこともできず、肉食獣と素手で戦えば決して強くはありません。しかし、その代わりに最後まで特定の能力に特化せず、多様な可能性を残したことで、知能を発達させることができました。その知能によって文明を築き、地球上で生物の頂点に立つことができたのです。

 

人類は知能を得たことで、地球のリーダーと呼べる立場になりました。しかし、現在その責任を果たしているとは言えません。文明がいくら発展しても、自然環境を破壊し、地球の未来を危機にさらしていては、本当の意味では進歩と言えないのです。政治家が国民の幸福を考えなければならないように、人類は地球に生きるすべての生命の未来を考えなくてはなりません。地球は人類だけのものではなく、すべての生命と共にあるのです。

 

形あるものはやがて滅びる。それは地球も例外ではありません。しかし、それを理由に地球の未来を考えなくてもよいわけにはなりません。人間は生まれた瞬間から死を迎える運命ですが、それでも人生をより良いものにしようと努力します。むしろ、限りある命だからこそ、その時間を大切するのです。同じように、地球の未来についても、自分の人生と同じように真剣に考えなくてはなりません。

 

人が亡くなっても、その人が生きた証は消えません。想いや影響は、周囲の人々の心の中に残り、世代を超えて受け継がれていきます。同じように、たとえ地球が滅びたとしても、地球が存在した影響は宇宙に残り続けるのではないでしょうか。

 

おすすめ書籍

安岡正篤「運命を創る」

十二 生物の進化

「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き残るのでもない。唯一生き残るのは、変化する者である」

チャールズ・ダーウィン

 

人類が誕生する以前にも、地球には長い歴史があり、さらに地球が生まれる前にも、宇宙には果てしない時間が流れていました。宇宙が誕生する以前のことは不明ですが、もしかすると、そこにも何かしらの歴史があったのかもしれません。

 

真空の中でエネルギーが揺らぎ、そのエネルギーが急激に膨張して宇宙は誕生しました。そして、宇宙は誕生以来、あらゆるものを生み出し、それを成長・発展させてきました。このように、宇宙が天地や万物を創造し、それを自然の理によってさ育み、発展させる働きを「造化」と呼びます。

 

生物が進化を繰り返すことで人類は誕生しましたが、そもそも進化はどのようにして起こるのでしょうか。進化とは、ある特性を持った個体が、それを持たない個体よりも多くの子孫を残し、その特性が次第に集団全体に広がっていく現象です。遺伝子の変異によって進化は生じるので、個体単位ではなく、集団全体で起こります。たった一匹だけが強くなったとしても、それは進化とは言えません。

進化の要因としては、自然淘汰や生存競争、適者生存といったものが挙げられます。食物などの資源は限られているため、環境に適応した生物だけが生き残るのです。進化は、特別な出来事によって生じるわけではなく、自然界において当たり前に発生する現象です。厳しい環境の中で生き延びる過程で、生物は進化していきます。

進化には欠かせない条件があります。それは「多様性」です。多様性があれば、矛盾や対立が生じ、それを乗り越えるために進化が促されます。逆に、多様性のない単調な環境では、進化は起こりません。人間も、困難や試練を乗り越えることで成長しますが、何の刺激もない生活を続けると、堕落してしまいます。ストレスのない環境で育った動物は、十分な生命力が育たずに早死にしてしまいます。

 

地球で最初に誕生した生物は、海の中に存在していた単細胞生物です。細胞一つの存在である細菌やアメーバは、自ら分裂して増えるため、寿命という概念がありません。ただし、環境が悪化したり、他の生物に捕食されたりすれば、もちろん死んでしまいます。

「寿命がない」と聞くと不老不死のように思えるかもしれませんが、単細胞生物はただ分裂を繰り返すだけで、個体としての変化や成長がほとんどありません。同じ形を保ったまま増えるだけの単調な存在であり、そこには個体としての発展も進化もないのです。それは、ある意味では「生きている」とは言えず、ただ存在しているに過ぎないかもしれません。

生物は進化の過程で、有性生殖という仕組みを獲得しました。有性生殖によって二つの個体の異なる遺伝情報を組み合わさることで、多様性が生まれ、進化がより起こりやすくなったのです。しかし、その代償として、生物は「寿命」を持つようになりました。

もし寿命がなかったら、生物は多様性を生み出せず、ここまで進化することはできなかったでしょう。生物は寿命を持ったことで、環境の変化に適応することができたのです。

 

生物の進化の歴史を振り返ると、まず遺伝情報が含まれる核を持たない「原核生物」が誕生し、それが核を持つ「真核生物」に進化しました。さらに、単細胞生物が協力し合うことで多細胞生物へと発展しました。

植物の進化に目を向けると、海中に生息していた緑藻類が陸上に進出し、コケ植物が誕生しました。その後、別の系統から胞子で繁殖するシダ植物が生まれ、さらに種子を持つ種子植物が誕生しました。種子植物の中でも、まずマツなどの裸子植物が誕生し、さらにバラなどの被子植物へと進化していきました。

動物の進化を見てみると、まず昆虫などの節足動物が誕生し、次に背骨を持たない無脊椎動物が、脊椎を持つ脊椎動物へと進化しました。脊椎動物の中では、まず魚類が誕生し、次に陸上に適応した両生類が現れました。さらに、乾燥した環境でも生息できる爬虫類が現れ、哺乳類や鳥類へと発展していきました。そして、最終的に人類が誕生することとなったのです。

また、植物や動物とは異なる進化を遂げたグループとして、キノコなどの真菌類も存在します。

 

実際の進化の過程はもっと複雑ですが、こうして生物は宇宙の造化のもとで進化を続けてきました。宇宙はあらゆるものを生み出し、それらを分け隔てなく育んでいます。すべての源である宇宙が、あらゆるものを進化させ続けているのですから、この宇宙に存在するすべてのものは、進化と向上のためにあると言えます。

 

人間は「死」を恐れ、思い悩みます。 しかし、死を恐れて悩んでも恐怖は増していくばかりです。だからこそ、死を考える前に「生」についてしっかり考えることが大切です。寿命や死は生物が進化向上するためにあり、生の意味を理解しなければ、死の意味は理解できないのです。

死があるからこそ、生物は進化を続けることができます。死を恐れ、生がおろそかになるのは本末転倒とも言えます。本当に恐れるべきことは、進歩や向上を止めることなのです。

宇宙がそうであるように、そこから生まれた人間の生きる目的も進化と向上にあります。だから、限りある時間を有意義に使い、宇宙の進化を助ける存在になりましょう。死とは、恐れるものではなく、次の世代に造化のバトンを渡し、さらに進化と向上していくためのものです。私たちの存在には、四十億年の生命の歴史が受け継がれているのです。

十一 人間の五要素

「魂は微妙にして、微小なる粒子から成り立ち、粒子は水の流性、雲、煙よりもはるかに徴細なり」

ルクレティウス

 

宇宙霊の一部である霊魂は、人の生命の根源となるエネルギーであり、そこに人格は存在しません。それなのに「心や体は霊魂の道具である」と言われると、違和感を覚えるかもしれません。そこで、もう少し心と体、そして霊魂について考えてみましょう。

 

あらゆるものを生み出し、動かすエネルギーそのものを「精気」といいます。人間の生命や活動もこの精気によって支えられており、精気がなければ生きることはできません。そして、生物に宿る精気を「霊」といい、それが動くことを「心」と呼ぶのです。

物質的な視点から見ると、心は脳の働きによって生じます。脳は神経を介して体の各部分とつながっています。心で思ったことは神経を通じて体へ伝わり、体で感じたことも神経を通じて脳へ送られます。このように心と体は神経を通じて密接に結びついてています。

一方、精神的な視点から見ると、心は精気の動きによって生じます。そして、この精気と心をつなぐ役割を果たすものが「魂」です。魂が精気を動かすことで、心が働き始めるのです。人間に宿る精気と、それを動かす魂を合わせたものを「霊魂」と呼びます。

馬車に例えると、馬が体、馬を操る御者が心、馬車に乗る客が精気にあたります。そして、御者が馬を操るために使う手綱が神経、客が御者に目的地を伝える声が魂の役割を果たします。客(精気)の声(魂)が御者(心)に行き先を伝え、御者は手綱(神経)を通じて馬(体)に指示を出し、馬車は目的地へと進んでいきます。客が目的地を伝えなければ、馬車はどこにも進めません。

 

人は困難に直面すると、理性では「進まなければならない」と考え、本能では「逃げたい」と感じます。この相反する感情が心の中でせめぎ合い、心や体にさまざまな不調を引き起こします。このようなときは、自分の本質は霊魂にあることを思い出し、魂を通じて気の流れを整えることで、心と体の暴走を制御しなければなりません。 

体は本能的に苦しみから逃れようとし、心は理性的に立ち向かおうとします。これは、足場の悪さに馬が進むのを嫌がり、御者がそれに苛立つことに似ています。しかし、もし御者が馬の制御を放棄すれば、馬は引き返してしまい、馬車は正しい方向へ進めません。かといって、御者が冷静さを失い、無理に馬を走らせようとしても、うまく進めないでしょう。そんなときこそ、客が御者に声をかけ、冷静さを取り戻させる必要があります。困難に直面したとき、霊魂が心を導かなくてはならないのです。

 

霊魂は、どのような状況においても常に同じ態度を取ります。なぜなら、霊魂には善悪の概念がなく、常に宇宙の法則に従っているからです。そのため、霊魂は決して判断を誤りません。宇宙は常に完全を目指して進んでいます。だからこそ、霊魂は本能や理性が誤った道へ進もうとしたとき、正しい方向を示す道標となるのです。人が求める不変の存在は、実は常に自分の中にあるのです。

 

人間以外の動物は理性を持たないため、本能に従い、最も安易な道を選びます。しかし、人間は理性を持つがゆえに、あえて困難な道を選ぶことができます。その過程で本能と理性が葛藤することもありますが、霊魂は変わらず進むべき道を示してくれるので、人間は成長していくことができるのです。

十 宇宙の視点

「あなたが悩んでいる問題は本当にあなたの問題だろうか。その問題を放置した場合に困るのは誰か、冷静に考えてみることだ」

ルフレッド・アドラー

 

心や体は霊魂の道具であり、自分の本質が霊魂にあることを忘れないようにしましょう。心や体に主導権を渡してしまうと、感情や痛みにとらわれて冷静な判断ができなくなります。人形遣いが糸と人形に注意を払うように、自分の心と体を客観的に捉えて、冷静さを保つことを心がけましょう。

心に雑念が生じると意識が散漫になり、心と体の調和が乱れてしまいます。だから、浮かんだ雑念はすぐに消すようにしましょう。御者が手綱を放せば、馬は勝手に走り出すかもしれません。人形遣いが糸や人形と一体になるように、私たちも心身を統一して、物事に向き合いましょう。

 

心と体を観察するときは、どちらか一方に意識が偏らないようにしましょう。人形遣いが糸と人形の動きを同時に把握するように、私たちも心と体の両方に注意を向けるようにしましょう。

車の運転をするときも、カーナビを見なければ道に迷ってしまうし、カーナビに気を取られすぎれば事故を起こしかねません。適度にカーナビを確認して運転するように、日常生活でも心の状態を時々確認しましょう。宇宙の視点から自分を見るように、客観的に自分を見つめるのです。

 

体は目に見え、触れることができるため、心より客観的に捉えやすいですが、心は目に見えない分、客観視することが難しいです。しかも、怒りなどの強い感情が生じると、心の状態を意識することがさらに困難になります。だからこそ、日頃から自分の心を客観的に見つめる習慣を身につけましょう。そうすれば、感情に振り回されることが少なくなるはずです。

 

心がうまくコントロールできていないと感じたら、人形劇を思い出しましょう。人形遣いが糸の動きを意識するように、自分の心の状態を冷静に捉えるのです。第三者の視点で自分を見つめることができれば、絡まりそうな心の糸をうまく解くことができます。

怒りや不安といったネガティブな感情は、実際に体に悪影響を及ぼします。これらの感情はストレスホルモンであるコルチゾールの分泌を増やし、細胞を傷つけてしまうのです。特に怒りは炎症を引き起こし、血圧を上昇させ、脳卒中などのリスクを高めます。怒った人の吐息に毒性があるという説もあります。ネガティブな感情が人体にとって有害であることを理解し、自分で自分を傷つけないよう努めましょう。

困難に直面すれば、ネガティブな感情が湧くのは自然なことです。しかし、それを感じているのは霊魂ではなく心であることを忘れてはいけません。心がショックを受け、防御反応としてネガティブな感情を生じさせているだけなので、心が「大したことではない」と思えば、それは自然と消えていきます。ネガティブな感情に振り回され、それにエネルギーを注ぐようなことは避けましょう。

心を暴走させないためには、常に冷静さを保つことが大切です。暴れ馬を制御するのが騎手の役目であるように、私たちも時々自分の心を客観的に見つめ、制御することを心がけましょう。

 

他人が自分をどう思おうと、自分が自分をどう評価しようと、本当の自分は変わりません。他人の意見も自己評価も、すべて心の働きにすぎず、状況よって変わるものです。心は単なる道具であり、それにとらわれてはいけません。本当の自分である霊魂は、どんな状況でも変わらないのです。

心や体を自分の本質だと勘違いし、「プライドが傷つけられた」と怒ったり、「失敗した」と落ち込んだりするのは意味のないことです。心や体はただの道具であり、それ自体に大きな価値はないのです。

九 糸と人形と人形遣い

「人間の背後には、人間が何を欲するにも、また何を人知れず思うにも、その一切を現実の形として現そうと待ち構えている宇宙霊が控えている」

中村天風

 

心と体と霊魂の役割の違いを、中世ヨーロッパのあやつり人形に例えてみましょう。あやつり人形は、人形という目に見える物体、観客からは見えない糸、そして劇場の上から糸を操る人形遣いという三つの要素で成り立っています。

人間の体は人形本体にあたり、心は人形に繋がった糸にあたります。そして、霊魂はその糸を操る人形遣いにあたります。

 

人間の体の病は、人形が故障して思うように動かない状態に似ています。また、心の病気は、糸が絡まって人形がうまく操れない状態に似ています。そもそも「病気」という言葉は、「気」である霊魂がうまく働いていないことを意味しており、心の不調が原因で、体の病を引き起こすこともあるのです。

糸も人形も修理できますが、いつかは壊れてしまいます。同じように、人間の心と体もいずれは消えてしまいます。しかし、人形を丁寧に扱い、手入れをすることで長持ちさせられるように、健康に気を遣えば、より長く生きることができるかもしれません。

 

人間を動かすエネルギーである霊魂は、人形劇の舞台で人形を操る人形遣いにあたります。糸を上手く操らなければ人形が思うように動かないように、心をうまくコントロールしなければ体も思うように動いてくれません。糸がもつれてしまえば、人形遣いはその対応に気を取られ、人形の動きがぎこちなくなります。人間も怒りによって冷静さを失えば、思うように体が動かなくなります。人形を動かすのは糸ではなく人形遣いです。同様に、人間を動かしているのも心ではなく霊魂であることを忘れてはなりません。

 

人形の動きを見れば、人形遣いがどのように糸を操っているかがわかります。同様に、人間の脳波を測れば、心の状態がグラフとして目に見える形で現れます。焦りとは、心が過剰に働いている状態であり、人形の糸がもつれているようなものです。しかし、人形遣いである霊魂はエネルギーそのものであり、焦ることはありません。自分の本質を心だと考えるのは、糸が人形を操っていると考えるようなものです。人形遣いにとって、糸も人形も単なる道具であるように、心も体も霊魂の道具にすぎないのです。

人形遣いが糸を冷静に操ることで人形をうまく動かすように、私たちも心を客観的に見つめ、冷静にコントロールすることが大切です。

 

人間は感覚や感情を持っているため、自分の本質を心だと勘違いしやすいですが、糸が人形を動かすためにあるように、心は体を動かすために存在します。人形劇の目的は、人形遣いが人形を使って観客を楽しませることであり、糸はそのための道具にすぎません。同じように、人生の目的は、霊魂が体を使ってその役割を果たすことにあります。心はそのための道具なのです。

人形が壊れても、新しい人形が作られることで劇は続けられます。同様に、人間の肉体が滅んでも、そのエネルギーは新たな生命として形を変え、再び活動を始めるかもしれません。

 

人生は、一度きりの人形劇のようなものです。途中で糸が切れたり人形が壊れたりしても、修理や交換はできません。困難を嘆いても状況は好転しないし、どんな状況であれ劇を続けるしかないのです。そして、一度幕が下りてしまえば、やり直しの機会はありません。終わって後に反省することもできないのですから、劇の最中に改善しながら進むしかないのです。

この一度きりの劇を成功させるには、自分の特性を理解し、それを正しく活かすことが大切です。自分に合わないことをしても、うまくいくはずがありません。たとえば、ロールプレイングゲームで魔法使いに剣を持たせても、活躍はできないでしょう。もしあなたが魔法使いタイプなら、霊魂というプレイヤーは、心というコントローラーを使って魔法を使わせるべきなのです。「戦士が良かった」と嘆いても、体を誰かと交換することはできません。

だからこそ、一度きりの人生を最大限に活かすために、自分の特性を理解し、それをうまく活用していきましょう。

八 心と体と霊魂

「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば、生まれぬ先の父ぞ恋しき」

一休宗純

 

宇宙に存在するすべての源となる大きなエネルギーを「宇宙霊」と呼んでみましょう。ここで言う「霊」は「気」、つまりエネルギーを意味します。そして、この「宇宙霊」の一部であり、人間の心と体のもとになるものを「霊魂」と呼びます。ちなみに、インド哲学では宇宙霊を「ブラフマン」、霊魂を「アートマン」と呼びます。

「霊」や「魂」という言葉にはオカルト的な印象を抱くかもしれませんが、ここでは単に、宇宙の大きなエネルギーを「宇宙霊」、その一部であり人間のもとになるエネルギーを「霊魂」と表現しているだけです。

 

人間の本質は、宇宙霊の一部である「霊魂」です。目に見える体は、霊魂がこの世界で活動するための道具にすぎません。そもそも、視覚が捉える世界は動物によって異なり、人間の見ているものが真実とは限りません。視力が変われば見える世界も変わります。実際、私たちが「体」と認識しているものも、細かい粒子が集まってできているのです。

 

霊魂がこの世界で活動するには、体を動かすためのコントローラーが必要になります。それが「心」です。しかし、心もまた霊魂の道具に過ぎず、体の主人というわけではありません。馬車に例えるなら、体は馬、心は御者、霊魂は乗客です。馬車は乗客を目的地に運ぶために走るのであり、馬自身や御者のために走るのではありません。同様に、私たちの心や体は、霊魂をこの世界で活動させるための手段なのです。

 

何かを思いつくことを「アイデアが浮かぶ」と言いますが、この「アイデア」はギリシャ語の「イデア」に由来しています。古代ギリシャの哲学者プラトンは、「イデア」という言葉を、目に見えるものではなく、心の目で感じるもの、すなわち精神の世界に存在する「ものごとの本質」を指して使いました。つまり、私たちが何かを考えるとき、目には見えない「本質」が働いていることになります。この視点から考えれば、心とは「気」の動きを意味する言葉だと言えます。

 

現代人は科学に偏った教育を受けてきたため、科学で証明できないことを受け入れるのが苦手です。人間の本質が霊魂だと言われても、それが顕微鏡で見えない限り、信じがたいと感じるでしょう。しかし、ブラックホールの内部が未だ解明されていないように、科学ではまだわからないことが数多くあります。数百年前には 「地球が宇宙の中心であり、太陽や星がその周りを回っている」と信じられていました。近代以降、五行説は西洋科学の視点から批判されることもありましたが、現代でも漢方医学などの分野でその理論が活用されています。このように、科学で説明しきれないからといって、すぐに否定するのではなく、一度先入観を捨て、柔軟な心で考えてみることも大切です。重要なのは、科学で証明できるかどうかではなく、真実にどれだけ近いかではないでしょうか。

 

おすすめ書籍

中村天風「心を磨く」

七 人間の本質

「自分は体はもちろん、心よりも超越した存在であることを自覚せよ。体も心も道具にすぎないのだ」

中村天風 

 

私たち人間の本質、すなわち「これがなければ人間ではない」と言えるものは何でしょうか。まず思い浮かぶのは、ものを考えたり、喜びや悲しみを感じたりする「心」です。しかし、心は脳の働きによって生まれるため、脳がなくなれば心もなくなります。脳が体の一部であることを考えると、心が人間の本質とは言えないかもしれません。

人類がこれほど文明を発展させたのは、他の動物に比べて脳が発達したからです。そのおかげで、人間は比類のない知能を手に入れ、複雑な思考ができるようになりました。

 

では、心が人間の本質ではないとしたら、体が本質なのでしょうか。もしそうなら、人間は物体を維持するためだけに生きていることになります。しかし、それならば、なぜ人間は進化の過程で理性を身につけたのでしょうか。

理性があるからこそ、人間は善悪の判断ができます。もし人間がただの物体であれば、本能のままに遺伝子を残そうとする存在であるはずです。しかし、理性が持つ人間は、他人の悲しみに共感し、損をしてでも正義のために行動することができます。このようや人間の本質が、単なる物体とは思えません。

もし人間の本質がただの物体にすぎないのなら、人生の目的はただ生き続けることになり、そこに意味や救いを見出すことはできなくなります。人間が生きる意味は、単に長く生き延びることではないはずです。

 

人間がどのように誕生するのかを考えてみましょう。人間の体を作る材料は、その人が生まれる前から地球上に存在していたものです。新しい人間が生まれるとき、特別に新しい材料が生み出されるわけではなく、宇宙全体のエネルギーの総量は常に一定で変わりません。

宇宙の視点で見ると、人間の生死は、地球の細胞が入れ替わるようなものにすぎません。一人の人間の生死が地球全体に大きな影響を与えることはなく、地球の長い歴史からすれば、それはほんの一瞬の出来事です。

人間の一生の背後には、地球の長い歴史があり、さらにその背後には宇宙の長い歴史があります。同じように、一つの細胞の誕生と死には、その人の人生という背景があります。

もし一人の人間の生死が宇宙のエネルギーに何の影響も与えないのだとしたら、人間の本質は心や体を超えた、さらに大きな何かかもしれません。人間の細胞は、その人の人生がなければ成り立たないように、人間も、地球や宇宙の存在なしには、成り立たないのです。地球には、人類が誕生する以前にも多くの生物の歴史があり、生物が進化と絶滅を繰り返してきた結果として、人類が誕生したのです。

 

人間は宇宙から生まれ、やがて宇宙へと消えていきます。初期の宇宙は膨大なエネルギーで満たされていたため、その宇宙から生まれた人間の本質は、エネルギーであると言えるのではないでしょうか。この宇宙に存在するすべてのものは、無から生まれたエネルギーが形を変えたものにほかなりません。

宇宙と人間を同じ視点で考えるのは難しいかもしれませんが、地球上で人間の生死が繰り返されるように、人間の体内でも細胞の誕生と死が繰り返されています。同じように、宇宙では星の誕生と死が繰り返されています。規模は違いますが、根本的には同じ現象が起こっているのです。

地球上のあらゆる存在は、地球という大きな生命体を構成する細胞のようなものです。同じように、宇宙に存在するすべてのものも、宇宙という生命体を形作る細胞のようなものだと言えます。人間の体と細胞を切り離せないように、地球と人間、そして宇宙もまた、本質的には分けることができないのです。

六 人間と地球

「人間は大宇宙の中の小宇宙である」

アーユルヴェーダ

 

人間の生命は、様々な臓器が協力して働くことで維持されています。脳は全身から情報を受け取り、指令を出す役割を担っています。肺は酸素を取り入み、心臓はその酸素を血液に乗せて全身へ送り届けます。酸素は体内のさまざまな場所でエネルギーを生み出すために使われます。

消化器官である胃や腸は、食べたものを消化し、栄養を吸収します。肝臓は取り込まれた栄養を代謝して利用できる形にしたり、有害物質を解毒したり、胆汁を作って消化を助けたり、エネルギーを蓄えたりします。腎臓や大腸は、水分やミネラルのバランスを調節し、不要なものを体の外に排出します。このように、各臓器がそれぞれの役割を果たすことで、人間の生命が維持されています。

人間の体には、脊髄を中心に全身に神経が広がっており、脳はこの神経を通じて全身とやり取りしています。脊髄は神経の束で、背骨によって守られています。また、脳と神経、さらにホルモンが連携して、体の状態を一定に保つ「恒常性」を維持しています。この恒常性のおかげで、寒い場所では体温が上がり、暑い場所では下がるなど、環境の変化に適当できるのです。もし恒常性がなければ、人間は寒さに耐えられず、すぐに凍えてしまうでしょう。

 

地球も同じように、多くの要素が協力することで成り立っています。オゾン層は紫外線から生物を守り、植物は酸素を作り出し、微生物は生物の死骸や排泄物を分解して環境を整えます。こうした働きによって、地球は生物が暮らせる環境を保っているのです。

 

 見方を変えてみると、地球を大きな人間、あるいは人間を小さな地球と考えることができます。たとえば、オゾン層は皮膚を守る髪の毛のような役割を果たし、植物は呼吸に必要な肺のようです。また、微生物は食物を消化・吸収する胃腸のような働きをしています。

 

古代中国の五行説という思想では、この世界のすべてが「木」「火」「土」「金」「水」の五つの元素から成り立つと考えられていました。これらの元素は互いに深く関わり合い、影響を与え合っています。たとえば、「木」は「火」を生み、「火」は「土」を生み、「土」は「金」を生み、「金」は「水」を生み、「水」は「木」を育みます。一方で、「水」は「火」を消し、「火」は「金」を溶かし、「金」は「木」を傷つけ、「木」は「土」の栄養を奪い、「土」は「水」を吸収します。 このように、五行は絶えずバランスを取りながら、宇宙や自然界の秩序を形作っているのです。

これらの五つの元素は肝臓、心臓、脾臓、肺、腎臓に対応し、東洋医学の基礎となっています。これらの臓器が互いに協力し、バランスを保つことで、私たちの体は健康を維持できるのです。さらに、五行説は季節や感情、徳など、さまざまなものにも結び付けられています。自然界だけでなく人間の精神面においても、これら五つの要素が調和することで成り立っていると考えられているのです。 

 

地球も人間も、多様な要素が組み合わさることで成り立っています。それぞれの要素が協力し合あうことで、絶妙なバランスが保たれているのです。人間は地球の一部でもあると同時に、無数の細胞や分子が集まった存在でもあります。私たちは地球と人間を分けて考えがちですが、実際にはその間に明確な境界線はないのかもしれません。人間が地球の一部であることは、手が体の一部であるのと同じことなのです。

植物と人間を別々の存在として捉えることは、肺と心臓が無関係な臓器だと言うようなものかもしれません。実際には、植物が作る酸素を私たちは吸いこみ、私たちが吐き出す二酸化炭素を植物は利用しています。このように、私たちはお互いに支え合いながら生きているのです。

そう考えると、この世界のすべては深くつながっていて、私たちには孤独などないのかもしれません。

五 奇跡の惑星

「空はとても暗かった。一方、地球は青みがかっていた」

ユーリイ・ガガーリン

 

太陽は巨大で高温の恒星であり、その強大な重力によって周りの惑星などを引き寄せ、太陽系を形成してます。地球もこの太陽系に属し、太陽の周りを公転しています。

太陽系が属する天の川銀河には、太陽のような恒星が他にも無数にありますが、地球以外ではまだ生物が見つかっていません。天の川銀河のような銀河は宇宙に約二兆個もあり、その数は地球上の人類の数よりも多いのです。

 

太陽は他の恒星と比べて特別に大きいわけではなく、平均的な大きさの恒星です。このことから考えると、地球も宇宙において特別な惑星ではないように思えます。それにもかかわらず、なぜ地球以外で生物が発見されていないのでしょうか?

生物が生存するためには、水が液体の状態でし存在する環境が必要です。惑星が太陽に近すぎると、水は熱で蒸発してしまい、逆に遠すぎると、水は凍ってしまいます。しかし、地球は太陽から適度な距離に位置しているため、水が液体のままで存在することが可能です。そのため、地球には広大な海があり、生命が生存できているのです。

 

太陽と地球の誕生について見ていきましょう。約46億年前、宇宙に漂っていた塵やガスが集まり、それが重力で押し縮められて「原始太陽」と呼ばれる天体が生まれました。やがて原始太陽の中心の温度と密度が高まり、水素が融合してヘリウムを作る「核融合反応」が始まりました。この反応によって、大量のエネルギーが放出され、現在の太陽が誕生しました。

その後、太陽の周りに残った塵やガスが集まり、微惑星と呼ばれる小さな天体ができました。これらがぶつかり合って合体を繰り返し、約46億年前に地球が誕生しました。当時の地球は激しい衝突のエネルギーによって表面が溶け、マグマに覆われた状態でした。その中で重い鉄やニッケルは地球内部に沈み、地球の中心に核が作られました。 

地球の中心部にある核の温度は、太陽の表面温度とほぼ同じで、その熱によって地表の水分が蒸発し、水蒸気となって空に上がります。水蒸気は空気中で冷やされて、小さな水の粒になります。これは、寒い日に窓ガラスに水滴がつくのと同じ現象です。そして、その水の粒が空中の塵にくっついて雲ができます。雲の中の水の粒が大きくなると重くなり、雨として地上に降ります。こうして、水は地球上を循環するのです。

水は蒸発するときに周りの熱を奪います。 地球の表面に降った雨がマグマに触れることで、その熱が奪われて地表の温度が徐々に下がっていきました。冷えたマグマは固まって地殻となり、その上に降り続いた雨によって海ができました。

地表が固まった後も、地球の内部では放射性物質がエネルギーを放出しいるため、内部は高温のまま保たれています。この熱によって地球内部のマントルがゆっくりと動いていて、この動きが地球の地形や地質活動に大きな影響を与えています。

 

誕生したばかりの海は酸性で、生物が生きられる環境ではありませんでした。これは、地球内部から吹き出した塩素ガスが雨と一緒に海に溶け込んだためです。しかし、地表の岩石に含まれていたナトリウムやカルシウムが徐々に溶け出して、酸性の海を中和していきました。これは、理科の実験で塩酸と水酸化ナトリウムを混ぜて中和する現象によく似ています。

その後、大気中の二酸化炭素や窒素が海に溶け込み、雷や太陽の紫外線のエネルギーが加わったことで、アミノ酸核酸などの有機物が生まれました。この時期の海は、アミノ酸が豊富な「生命のスープ」と呼ばれる状態でした。アミノ酸はタンパク質のもととなり、核酸は生物を作る設計図となります。

 

やがて海中に生物が誕生しましたが、当時は地表に有害な太陽の紫外線が降り注いでいたため、生物はまだ地上に進出することができませんでした。しかし、海中の植物は光合成を行い、光のエネルギーを使って二酸化炭素と水から有機物と酸素を作り出しました。この光合成によって、空気中の二酸化炭素が減り、酸素が増えました。さらに、この酸素が太陽の紫外線と化学反応を起こしてオゾンを生成し、やがてオゾン層が形成されました。オゾン層は有毒な紫外線を吸収するため、ついに生物が陸上に進出できる環境が整ったのです。

 

地球の海には多種多様な物質が存在していたため、生物が誕生し、進化することができました。そして、長い年月をかけて生物は進化を続け、ついに私たち人類が誕生したのです。生物が地球に存在しているのは、地球が多くの条件を偶然にも満たした結果であり、奇跡的なことなのです。

四 還る場所

「私たちは星のかけらでできている。宇宙は私たちの中にある」

カール・セーガン

 

私たちが暮らす地球は、恒星である太陽の周りを公転する惑星の一つです。太陽とその周りを回る惑星の集まりを、太陽系と呼びます。そして、太陽系は1000億個以上の恒星が集まる天の川銀河(銀河系)の一部です。宇宙には、これ以外にも無数の銀河が存在しています。この広大な宇宙という視点から見れば、地球や太陽系はほんの一部分に過ぎません。

 

人間の体は、主に水分で構成されており、タンパク質や脂質などが含まれています。部位別に見ると、皮膚、筋肉、骨、臓器、血液などに分類され、それらは無数の細胞のから成り立っています。元素レベルで見ると、酸素、炭素、水素、窒素が主な構成成分であり、カルシウムやリンといったミネラルも含まれています。そして、これらの元素は原子やさらに小さな粒子で構成されています。

 

では、人間の本質は粒子なのでしょうか?宇宙のすべての物質は、生命の有無に関係なく、共通のごく小さな粒子でできています。人間が粒子でできていることを考えれば、私たちは宇宙の一部であり、宇宙の万物と本質的には同じということになります。細胞が人間の一部であるように、人間は宇宙の一部なのです。

 

宇宙が誕生する前は、完全な「無」ではなく、「量子真空」と呼ばれる状態であったと考えられています。そこでは、空間自体が「真空エネルギー」と呼ばれるエネルギーを持ち、プラスとマイナスのエネルギーが均衡を保ちながら活動していました。この微小なエネルギーの変動は「量子揺らぎ」と呼ばれ、常に発生していたとされています。量子とは、物質現象を構成する最小単位のことです。量子真空では、小さな粒子とその反対の性質を持つ粒子が、一瞬生まれては消えるという現象が絶えず起こっています。これは、量子真空がエネルギーを持つために生じる現象です。

 

宇宙の誕生については完全には解明されていませんが、有力な仮説によれば、あるとき量子揺らぎによって真空中のエネルギーに不均衡が生じ、その結果、真空エネルギーが蓄積された極小の宇宙が誕生したと考えられています。

この顕微鏡でも見えないほど小さな宇宙は、「相転移」と呼ばれるエネルギー状態の劇的な変化を経て、一瞬で急激に膨張しました。この膨張は「インフレーション」と呼ばれ、この過程で蓄積されていた真空エネルギーが解放され、宇宙は超高温・超高密度の火の玉のような状態になりました。そして、この中で光や多くの素粒子が生みだ出されました。素粒子とは、物質を構成する最小単位のことです。約138億年前、火の玉のような宇宙が急激に膨張した現象を「ビッグバン」といいます。

ビッグバンの後、宇宙は膨張を続けながら徐々に冷えていき、その過程で素粒子が集まって陽子や中性子が誕生しました。さらに、それらが結びついて原子核が形成され、宇宙に飛び交っていた電子と結合することで原子が生まれました。そして現在も、宇宙は膨張を続けていると考えられています。

 

宇宙に存在する人類は、宇宙の一部であると言えます。もし宇宙が「無」から誕生したのだとすれば、人間も「無」から誕生したと言えるかもしれません。宇宙が誕生したのは約138億年前のことであり、その壮大な歴史から見れば、人間の一生はほんの一瞬に過ぎません。宇宙の視点から捉えたならば、人間の一生は、水面に浮かんだ泡がすぐに弾けて水と空気に戻るような、儚い存在と言えるでしょう。

泡が弾けても水そのものの量が変わらないように、人間が死んでも宇宙全体のエネルギー量は変わりません。人間は泡のようにこの世界に生まれ、死を迎えると再び宇宙のエネルギーへと還っていきます。つまり、人間は無から生まれ、死によって無に還ると言えるのです。無に実体はありませんが、そこにはエネルギーの流れが存在しています。宇宙という広大な視点から見ると、人間の一生とは、エネルギーが揺らいだことにより、一時的に形を持っただけの存在なのかもしれません。

 

人間は無から生まれたにもかかわらず、無を恐れます。それは人間の本能によるもので仕方のないことですが、死を過剰に恐れることは、精神に悪影響を与えます。死の恐怖は、不安や怒りなどに形を変えて、苦しみを生むのです。

人間は永遠に生きることはできず、必ず死を迎えるため、生と死は切り離せません。だからこそ、死を過剰に恐れて苦しむよりも、生きている間は生を楽しむことが大切です。「無」とは、人類にとって生まれ故郷であり、還る場所でもあるのです。

三 移りゆく価値観

「常識というものは、世間一般に信じられているほどの根拠をもたない」

アルベルト・アインシュタイン

 

現在行われている学校教育は、学力を上げることが重視されていて、 個性を重んじるような授業は行われていません。効率が重視され、 カリキュラムに沿った授業が行われています。現代の科学水準に見合った知識を詰め込まれ、大学を出る頃には機械的に物事を考えるようになってしまいます。数式などで論理的に説明できないことは、納得ができなくなってしまうのです。だから、現代人にとって、矛盾を受け入れることは容易ではありません。しかし、それでは解決できない問題が現実には数多く生じます。

  科学は現在も発展途中であり、常に正しい答えを出すとは限りません。現代科学でもわからないことは、まだまだ数多くあります。ほんの数十年前まで、医者は病気をした患者に、肉を多めに食べさせていましたが、今では消化の良い物を食べさせるのが当たり前になっています。当時は、消化よりも栄養のことを第一に考えていたのです。時が経つと、常識は変わっていきます。

  現代になって、古くから言い伝えられてきた民間療法が、科学的に効果が証明されたり、仏教やヨガなどで行われてきた瞑想を、西洋の医療が取り入れたりしています。それまでは見向きもされなかったものが、科学的に証明されるだけで取り沙汰されることがあるのです。本当に大切なのは、その本質がどうであるかです。しかし、学校教育を終えて、社会に出る頃には、誰もが科学を信奉するようになってしまいます。

 

現代のストレス社会の要因には、人々が論理的な思考に偏りすぎていることが関係しているかもしれません。論理だけで物事を考えると、人情や思いやりは失われ、機械的に損得だけを考えるようになります。しかし、人の心は機械ではないので、無理に論理的な思考を続けていると、自然な感情が抑圧されて、精神に負担がかかってしまいます。

 

時代が変われば、価値観は大きく変わります。現代のように文明が発達する前は、人類は弱肉強食の世界で生きていました。そこでは強さが正義であり、人殺しは悪ではありませんでした。数百年前までは、自分の出世のために、親族を殺すことも珍しいことではなく、源頼朝も、足利尊氏も、織田信長も、兄弟を死に追いやっています。現代の政治家が出世のために兄弟を殺したとなれば、大ニュースになって、政治生命は終わってしまうでしょう。

 

文明が発達する前、人々は未知のことを恐れるあまり、自分たちが理解できないことは、神や天などの目に見えない存在によって起こされていると考えていました。雷が「神鳴り」と呼ばれるのは、神が雷を鳴らしていると信じられていたからです。人々は未知のものに対して、無理にでも理由付けをして安心しようとしたのです。このようにして、世界各地に神話が生まれていきました。

古代の権力者たちは、効率よく民を支配するために神の存在を語り、民に同じ価値観を持たせようとしました。そして、神の名を借りることで、自分の言うことを民に信じさせたのです。そして、宗教は教育によって広められていました。現代の教育も、誰かが自分にとって都合の良い価値観を広めるために、利用しているのかもしれません。

宗教には、人間の思索によって生まれた教義と、恐怖から生まれた神の存在の二つの側面があります。だから、宗教について考えるときは、儀式的な神への信仰と教義を別に考えなくてはなりません。

 

人は変わらない確かなものを求めますが、価値観は時代と共に変わり、善悪の基準も変わっていきます。だから、時代の価値観に左右されない自分の軸となるものを、過去の歴史から学び、自分の中に作っていきましょう。しかし、現代の学校教育では、それを教えてはくれません。

常識とは、その時代の人々が作ったルールに過ぎず、時代と共に変わっていきます。それに対して、時が経っても変わらないルールが真理です。論理や物理など理は数多く存在しますが、真理はそれらすべてを包含する宇宙の法則です。理同士が互いに矛盾することがあっても、真理はその矛盾ごと包容します。だから、私たちは常識よりも真理を知ることが重要なのです。

真理は一つであっても、それを説明する方法は一つではありません。キリスト教、仏教、ヒンドゥー教などの宗教は、異なる教義を持っていますが、真理をそれぞれ違う角度から説明しているだけで、本質は同じものです。それぞれの人が違う価値観を持っていても間違いではないように、 宗教に正しいも間違いもないのです。

中国唐代の臨済宗開祖である臨済義玄の言行をまとめた「臨済録」には、「随所に主となれば、立つところみな真なり」という言葉があります。これは「どこにいても主体性を持っているなら、そこは正しい場所になる」という意味です。真剣に導き出した答えはどれも正しく、人によって違っても優劣はありません。それは人の個性によるもので、正誤で判断するものではないのです。重要なのは、主体性を持っているかどうかです。言い換えれば、自分が自分の人生の主人公であるかどうかなのです。

二 真理と矛盾

「すべてのものはそれ自身において矛盾している」

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル

 

文明が進歩したことにより、私たちの生活は非常に便利になり、欲しい物が簡単に手に入る時代になりました。しかし、その一方で、国や企業は利益を優先し、効率を重視するあまり、人々の生活は細かく管理されるようになりました。その結果、人々は日常的にストレスを感じるようになり、現代は「ストレス社会」と呼ばれるようになりました。

そもそも、人間は何が原因でストレスを感じるのでしょうか。その答えは、本能から生じる恐怖です。人間は他の動物と同じように、自分の身を守るために、本能的に恐怖を感じます。そして、その恐怖が怒りや不安、苦しみなどに変わり、それが積み重なることで、ストレスとなっていくのです。

人間は未知のものを恐れ、理解できないものを避けようとします。しかし、世の中は不確かなことばかりです。他人の気持ちも、地球の未来も、自分の将来さえもよくわかりません。だからこそ、人々は変わらない何かを求めます。多くの人々が家族やお金を大切にするのは、それらがいつまでも変わらない存在だと信じているからです。しかし、実際は全てが変わっていきます。「変わり続けること」がこの世界の変わらない法則なのです。矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、この世界には、他にも数多くの矛盾が存在します。

 

喜びと悲しみは一見すると対立する感情ですが、実はそれらは密接に繋がっています。楽しいことばかりでは、それが当たり前になって、楽しいとは感じなくなるのです。例えば、旅行でハワイに行くことは楽しいですが、ハワイに住み続けるとなると、それは楽しみではなくなってしまいます。日々の生活があるからこそ、ハワイ旅行を楽しいと感じることができるのです。喜びと悲しみはコインの表と裏のように、切っても切り離せない関係です。生と死、自由と束縛、創造と破壊も同じように、対立しているように見えて、実は一つの概念の異なる側面なのです。

人間は、苦しみのない楽しい生活や束縛のない自由を求めますが、そのようなものはこの世に存在しません。誰もが嫌な思いはしたくないので、無意識に都合の悪いことから目を逸らそうとします。しかし、喜びは悲しみがあるから生まれ、自由は束縛があるから存在します。死があるから、私たちは生きているのです。喜びと悲しみの関係を理解すれば、悲しみも必要なものだと理解できます。

 

一見矛盾していることを受け入れることが、真理に近づくための鍵となります。矛盾や対立を乗り超えることで、人は進歩し向上していきます。禅問答のようですが、変わることと変わらないことは実は同じことなのです。

言葉は一つの表現であって、言葉になった時点で、すでに何かが失われています。表現とは、想像したものを一つのかたちに固定することであって、その全てを表すことはできないのです。だから、言葉や文字だけでは、何事も完全に理解することはできません。真理は、言葉や矛盾を超えた先にあります。それを理解した上で、少しずつ真理に近づいていきましょう。

一 前書き

人間は何のために生きているのでしょうか?地球環境を破壊し、争いを繰り返す人類は悪い存在なのでしょうか?こうした問いに対して、あなたは自分なりの答えを持っていますか?

文明が発達したことで、私たち便利で快適な生活を送れるようになりました。食事に困ることはほとんどなくなり、映画やスポーツなど多くの娯楽があふれています。しかしそれにも関わらず、ストレスや生きづらさを抱え、うつ病神経症などに苦しむ人が増えています。これは、人類が物質的な面ばかりを重視し、精神的な面を軽視した結果ではないでしょうか。昔は物質的に貧しかった分、精神面が重視され、現代よりも人の心が丈夫だったのかもしれません。
明治から昭和の時代にかけての日本には、今では想像もつかないようはスケールの大きな人物が多く存在していました。たとえば、東洋思想や哲学を現代に応用することを説き、日本の戦後復興期において精神的指導者として重要な役割を果たした安岡正篤。独自の思想体系「天風哲学」を築き上げ、積極的な思考を通じて自己実現を目指す実践的な方法論を説いた中村天風。また、その中村天風の師であり、欧米列強のアジア植民地化を防ぐために活動した頭山満。私はこのような偉人たちの思想に触れることで多くのことを学び、冒頭のような問いにも、自分なりの答えを持つことができました。

目的もなく漠然と生きていると、人は怠け、無為に人生を過ごすようになります。孔子は、「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従い矩を超えず」と語りました。
孔子は、十五歳で世のために役立とうと学問を始め、三十歳で自分なりの考え方を確立し、四十歳で迷うことがなくなったといいます。若い頃は理想と現実のギャップに苦しみますが、四十歳前後で、人はありのままの自分を受け入れられるようになります。すると、自分の考えと世の中が一致して、迷うことが減るのです。
孔子は五十歳で自分に与えられた使命や役割を理解し、六十歳になると周囲の意見をすべて受け入れられるようになりました。そして、七十歳になると思うままに生きても、道理から外れることがなくなりました。

孔子ほどの偉大な人物であっても、この境地に至るまでには長い時間が必要でした。人間性を磨くことが、いかに難しいかがわかります。また、人間は自分自身のためだけでなく、世のために役立とうと考えなければ、真に成長することはできません。自分勝手に生きて物質的な財産を得たとしても、心は満たされることも成長することもないのです。
現代の学校教育では、社会に出てお金を稼ぐための知識やスキルは学ぶことができても、人間性を育むための本質的な学びは得ることはできません。

本書は、中村天風安岡正篤の教えを中心に話を進めていきます。二人の教えの核となる部分を、理解しやすい形でまとめるよう心がけました。古い書物は言葉遣いや内容が難しく、読みにくいことが多いので、本書がそのような本との架け橋になれればと思っています。また、二人の教えだけに留まらず、私自身の解釈を加え、発展させています。本書が二人の教えを繋げる役割を果たせたらと願っています。
中村天風安岡正篤の書籍に親しんでいる読者は、年齢層が高い印象があります。しかし、これからの時代を担う若い世代にこそ、彼らの思想に触れてほしいと思うので、特に若い世代に読みやすい内容となるように心がけました。
中村天風安岡正篤の書物には、誰もが学ぶべき多くの教えが記されていますが、「自己啓発」や「宗教」といったカテゴリーに分類されるため、敬遠されがちな一面があるように思います。しかし、かつての日本人は、キリスト教徒が聖書を読んで信仰を深めるように、儒教の経典である「論語」を日常的に読み、自らの精神を養っていました。今こそ、私たちは失われつつある日本の精神を取り戻し、それを未来へ繋げていくべきではないでしょうか。本書がその一助となることを心より願っています。

53 あとがき

実のところ、私は決して君子と呼べるような人間ではありません。幼い頃、父親とうまくいかなかったこともあり、性格には偏りがあり、神経過敏な一面を抱えています。二十代の頃は精神的に不安定で、人付き合いが苦手だったため、多くの方に迷惑をかけてきました。本能心に振り回され、数え切れないほどの挫折も経験しました。しかし、そんな私に良い変化をもたらしてくれたのが、過去の偉人たちとの出会いです。もし安岡正篤中村天風と出会わなかったら、今も、私は悲惨な人生を歩んでいたかもしれません。だからこそ、恩返しの意味も込めて、彼らから学んだ教えを未来へ繋げていくことが、私の使命だと思っています。

 

三国志曹操は「孫氏の兵法」に、朱熹は「論語」に、吉田松陰は「孟子」に註釈を加え、それぞれの見解をまとめました。このように、偉人たちは自身の知恵を次世代へ受け継ぐために尽力してきました。しかし、時代が進むにつれ、価値観や言葉遣いが変わり、古い書物は次第に読みにくくなっていきます。それでも、中身を現代に合わせてアップデートすれば、過去の書物は息を吹き返し、今の時代にも役立つものとなるのです。書物もまた、スマートフォンのオペレーションシステムのように、定期的なアップデートが必要なのです。良いものを大切に残しながら、それを基盤としてさらに進歩を続けていくことが大切です。すべてを壊して一から作り直すだけでは、真の進歩は得られません。過去から学び、それを未来へと活かしていくことが重要です。この考え方は、人類の歴史においても、私たち一人ひとりの人生においても同じように大切なものなのです。

 

中村天風は人類の未来を明るいと信じていました。物質的な豊かさに加えて精神的な豊かさを人々が追い求めることで、いつか誰もが真理の中で生きるようになると信じていたのです。一方で、安岡正篤は現代に危機感を抱いていました。しかし、彼は日本の民族性に誇りを持ち、それを失わない限り、日本は進歩し続けると信じていました。

 

植物を育てるときの考え方は、物事を理解する上でも大いに役立ちます。まず、栄養を主要な幹や枝に集中させるためには、ときには枝を剪定する必要があります。これは、目先のことにとらわれず、長い目で物事を捉えることの大切さを教えてくれます。次に、表面上は健康に見える植物でも、裏側に害虫が潜んでいることがあります。そのため、一つの側面だけでなく、多面的に全体を観察することが重要です。そして、枝葉や花に注目する前に、まず根に目を向ける必要があります。たとえ美しい花を咲かせていても、根が健全でなければその植物は長く持たないからです。物事を考える際には、本質を見極めることが欠かせません。


この「長く見る」「広く見る」「深く見る」という三つの視点を、「思考の三原則」と呼びます。これらの原則は、私たち個人においても、人類全体においても、物事を捉える上で重要な指針となります。

 

孟子」にはこうあります。「天が重大な任務を人に与えようとするときは、その精神を苦しめ、筋骨を疲れさせ、肉体を飢えさせ、どん底の生活を強い、何事もうまくいかない試練を与える。それは、その人の心を鍛え、忍耐力を育て、天命を果たすにふさわしい人物に成長させるためである」と。中村天風安岡正篤も、現代では想像を絶するような厳しい試練を乗り越え、その天命を全うしました。このような経験を経た人でなければ、大きな仕事を成し遂げることはできないのでしょう。

 

霊性心に従い、真理に基づいて生きるならば、人は必ず幸福になれます。なぜなら、宇宙は常に完全であり、積極的な姿勢を崩さないからです。だから、徳の高い人々は、死を迎える際にも安らかな心でいることができます。南宋儒学者・陸象山は、自らの死を数日前に静かに予告し、それを不吉だと嘆く家族に「ただ自然なことだ」と穏やかに答えたと伝えられています。また、「荘子」にも「聖人は、身心を自然のままに任せ、安らかに生を終える」と記されています。


このような境地に達することは簡単ではありません。しかし、霊性心に従い、日々楽しみながら鍛錬を重ねていけば、いずれその境地に至ることができるでしょう。 積極的に生きることを確固たる信念とするのです。

 

幕末から明治にかけての日本では、江戸時代に培われた徳性を重んじる教育のおかげで、多くの偉大な人物が輩出されました。その結果、大きな流血を伴うことなく明治維新を成し遂げることができました。極東の小さな島国である日本が日清戦争日露戦争に勝利できたのも、そうした先人たちの力があったからです。これらの戦争は侵略を目的としたものではなく、国を守るためのやむを得ない選択でした。

 

しかし、その後の日本は西洋式の考え方へと舵を切ったことで、迷走を始めることになります。それでも、こうした奇跡的な偉業を成し遂げた日本という国に生まれたことを、私は誇りに思います。そして、先人たちが追い求めた理想を絶やすことなく、それを未来へと繋げていく責任が、私たちにはあると思うのです。

 

心の置きどころ次第で、物事の答えは変わります。この世に特別な人間はいないとも言えるし、すべての人が特別な存在だとも言えます。生きることは当たり前だとも言えるし、奇跡だとも言えるのです。私たちは、生まれたときからすべてを持っています。だから、誰もが雑念を取り払えば、真理の中で生きられるはずです。私たちは霊魂であり、常に宇宙霊と繋がっています。だから、どんな状況でも決して独りではないのです。

 

この宇宙に存在するすべてのものは、人間が見つける前からすでにそこにありました。ゆえに、すべての発明とは、本質的には「発見」にすぎないのです。したがって、この世界に存在するあらゆるものを所有する権利は、本来、誰にもありません。万物は一体であり、分けることなどできないのです。


苦しみがあるからこそ楽しみが生まれ、悲しみがあるからこそ喜びが輝きます。もし、苦しみも悲しみも存在しない人生があるとしたら、それは楽しみや喜びも感じられない人生と同じでしょう。だからこそ、苦しみや悲しみもまた、私たちの人生にとって欠かせない大切なものなのです。


最後は、中村天風の言葉で締めくくりたいと思います。

「人間はこの世に苦しみにきたわけではない。進化と向上という使命を果たすため、この世にやってきたのだ」