照心洗心録

安岡正篤、中村天風などから学んだことをまとめています。

47.悟り

「悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きている事であった」
正岡子規

 

私たちの体は気の集まりでできています。

目には見えない無数の粒子が、それぞれの正しいルートの上を動くことで、私たちの形が保たれています。

世界を大きな目線で見ることをマクロ、小さな目線で見ることをミクロといいますが、私たちの体を構成している粒子一つに注目して、ミクロの世界を考えてみましょう。

もし粒子が、進むべきルートから外れてしまえば、私たちの体に何かの不調が起きます。

道というのは、粒子が進むべきルートのことであり、理というのは、粒子がそのルートを進んでいくための法則を指します。

理を無視して、道から外れてしまえば、そこに不調が生じて破壊の作用が起こります。

癌細胞が正にそうで、周りとの調和を無視して、自分勝手なルートを進むから、破壊が生じるのです。

 

儒教では、周りと調和することを「礼」といい、協調して全体的が動くことを「楽」といいます。

つまり、礼とは全体を統一し、秩序を保つために必要なものなのです。

だから、相手に対して礼を失うことは、自分に対して礼を失うことと同じになります。

音楽はそれぞれの音が協調して、ハーモニーやリズムを作り出すことを指します。

音程やリズムを外した音は例を失った音といえるでしょう。

癌細胞は礼を失った細胞のことなのです。

 

「仁」とは、霊性心による愛や思いやりを指していますが、 孔子は仁について、「自分に克って、礼にかえること」と説きました。

また儒教では、「忠」や「孝」、「悌」なども仁のあらわれと考えられています。

忠とは、主君に尽くす真心を、孝は親孝行する心、悌は兄などの年長者を敬う心を指します。

どれも人間が調和を持って生きていくために必要なことがわかると思います。

頭山満は、 何か書いてくれと頼まれたときに、「忠孝をもって天地の恩に報いる」とよく揮毫(きごう)しました。

揮毫を求めるのは、現代でいえば、芸能人にサインを求める感覚と考えていいでしょう。

忠義と孝行を実践することで、自分が天地からもらった恩に報いるという意味になり、頭山満は特に忠孝を重んじていたようです。

忠孝を持つことは、文化や伝統を受け継いでいくことにも繋がります。

 

孔子は「夫子の道は忠恕のみ」といいました。

訳せば、立派な人の道は、誠実さと思いやりによって行われるとなります。

忠とは中する心のことなので、主君に尽くす真心以外にも、進歩向上していく心を意味します。

また、恕とは漢字の通り、女性の領域の心であり、大地のように万物を受容して許す心を意味します。

つまり忠恕とは、霊性心を陰陽相対性原理によって、人の心に当てはめたものなのです。

 

死とは、まとまって動いていた無数の粒子が、調和を失ってしまい、それぞれが固定されてしまうことを意味します。

粒子が礼や楽をもって動くことを、生命というのです。

人間が道から外れずに人生を進んでいっても、最終的にはゴールに辿り着くので、 人は必ず死んでしまいます。

 

無数の粒子が集まって、調和をもって一つの像を結ぶとき、無数の粒子はそれぞれが定められた道を進みます。

その像を結ぶために通るべき道が、粒子を人間と考えたときの人生なのです。

その道から外れてしまえば、破壊作用が生じるので、定められた寿命よりも早く死ぬことになります。

逆に考えれば、道の上を進んでいる限り、必ず定められた寿命を生きることができるのです。

 

それぞれが正しいルートを進むことで、宇宙の造化が成り立ちます。

宇宙の中で万物が創造され、育まれていくのです。

人間が心を積極的に保ち、霊性心を発揮すれば、その道の上を進んでいくことができます。

本能心や理性心だけでは、道の上を進んでいくことはできないのです。

私欲を去って、徳を積むことが求められます。

人間以外の動物は、本能心によって道から外れてしまうため、寿命を全うすることが難しいのです。

すべての宗教は、その道の上を進んでいく方法をそれぞれの言葉で説明しています。

 

心とは粒子の動きを指すので、本能心が暴走してしまえば、粒子は大きく道を外れてしまいます。

少しのズレなら後から修正できますが、外れすぎると、正しいルートに戻って来れないかもしれません。

心を無にすることで、時々粒子を正しいルートに戻してやらなければなりません。

時に自反して、省みることが必要なのです。

 

寿命とは、人間という一つの粒子が、宇宙の造化の道の上を進んで行き、ゴールに辿り着くまでの長さのことです。

その道から外れれば、破壊の作用が生じ、早めに死が訪れてしまいます。

私たちがゴールに辿り着くか、道から外れすぎると、人間の粒子は調和をもって動くのをやめ、私たちを構成するミクロの粒子は、バラバラに散っていきます。

でもその粒子は消えるわけではなく、また他の粒子たちと協調して、また何かに化していくのです。

 

宇宙を一つの粒子として考えてみましょう。

その粒子が道から外れたり、ゴールに辿り着けば、宇宙は形を失ってしまうかもしれません。

だから、私たちは正しい道の上を進んで、宇宙の創造の作用が、破壊の作用に負けないように、宇宙の造化と共に生きていかなくてはなりません。

ここでいう正しいとは、理性による相対的な善悪ではなく、創造と破壊を善悪に置き換えた、絶対的な正しさのことです。

私たちの使命は、その命が尽きるまで、宇宙の造化と共に正しい道を進むことにあるのです。

そのために必要なのは、才能や財産ではなく、私欲のない心だけなのです。

だから、人生に必要なものは、自分の中にしか見つけることはできません。

人生において大事なことは、正しい道の上を進んでいるかどうかだけなのです。

48.あとがき

実は、私は君子と呼べるよう人間ではなく、性格に偏りがある、神経過敏で徳のない人間です。

人付き合いも苦手で、周りの人に多くの迷惑をかけてきました。

そして、本能心と理性心に振り回されながら、多くての苦労と挫折を味わってきました。

そのような私に、 過去の偉人たちとの出会いが、生き方を変えるきっかけを与えてくれました。

もし、安岡正篤中村天風に出会ってなかったら、悲惨なことになっていたと思います。
だから、恩返しではありませんが、先人たちから学んだことを、未来へ繋ぎたいと思っています。


三国志曹操は、「孫氏の兵法」の注釈を書き、朱熹は「論語」の注釈を書き、吉田松陰は「孟子」の注釈を書いて見解をまとめました。

時代が経つと、価値観や言葉遣いが変わるため、どうしても過去の書物は読みづらくなってしまいます。

その時代に合うように中身をアップデートすれば、過去の書物は息を吹き返し、新しい世で役立つことができます。

書物もスマートフォンのオペレーションシステムのように、アップデートが必要なのです。
良いものを残して、さらに進歩を続けていく。

革命のように、新しく一から作り直していては、いつまでも進歩がありません。
過去から学び、未来へ活かす。

人類の歴史も人の一生も、その点では同じです。


中村天風は、人類の未来は明るいと信じていたと思います。

これから人類は物質面だけでなく、精神面も豊かになっていき、いつしか誰もが真理の中で生きるようになると信じていました。

 

安岡正篤は現代に危機感を抱いていましたが、日本という国に誇りを持っていました。

日本が民族性を失わないかぎり、日本はいつまでも進歩向上していけると信じていたと思います。

 

植物を育てるときの考え方は、物事の考え方に通ずるところがあります。

まず、目先のことにとらわれず、長い目で見ましょう。

ときには、剪定をして枝の数を減らし、栄養をメインの枝や幹に回さなくてはなりません。

次に、一面にとらわれず、多面的に見て、全体を捉えるようにしましょう。

ある一面だけを見れば、健康に見えるかもしれませんが、裏側には害虫がついているかもしれまさん。

また、枝葉ではなく、まずは根本を見るようにしましょう。

綺麗な花を咲かせているからといって、その植物が健康とは限らないのです。

これら三つを思考の三原則といいます。

人類や地球の未来について考えるときも、このような広い視野で考えていかなければなりません。

すべての物事は、陰と陽のバランスが取れていないと、どこかで綻びが生じてしまいます。

現代社会は、陽である物質面が大きくなりすぎているので、今こそ陰である精神面を蓄えなければなりません。

 

人生における苦難の時期は、後から振り返ると、必ず自分の糧になります。

儒教経書の一つである「孟子」に、「天のまさに大任をこの人に降くださんとするや、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を餓えしめ、その身を空乏にし、行いにはその為すところを仏乱せしむ。 心を動かし、性を忍び、そのよくせざるところを曽益するゆえんなり」という箇所があります。

訳すと、「天が人に重大な任務を与えようとするときには、必ずまずその人の精神を苦しめ、その筋骨を疲れさせ、その肉体を飢え苦しませ、どん底の生活に突き落とし、何事もうまくいかない試練を与えます。 それは、天がその人の心を鍛え、忍耐力を増大させ、それを負わせるに足る人物に育てようとしているからです」となります。

中村天風も、安岡正篤も、頭山満も、厳しい試練を乗り越えて、天から与えられた重大な任務を果たしていきました。

そのような経験をした人でないと、大きな仕事をやってのけることはできないのです。

 

真理に従って、霊性心で生きれば、人生は必ず幸福なものになります。

なぜなら、宇宙は常に完全であり、積極的だからです。

徳の高い人たちは、死を迎えるときも穏やかでいられます。

中国南宋儒学者である陸象山は、臨終の数日前に死を静かに予言して、「不吉な言葉だ」と恨み言を言う家人に、「ただ自然だ」と厳かに答えたそうです。

道教の書物である「荘子」にも、「聖人は、身心を自然のあるがままに任せて安らかに生を終わる」とあります。

そうなるのは簡単なことではありませんが、日々鍛錬し、それを信念にして楽しめば、いつか現実になるはずです。

 

幕末から明治にかけて、日本は人材の宝庫と呼べるような状態で、優れた人物が多数いました。

だからこそ、明治維新を成し遂げ、日清戦争日露戦争に勝利することができたのです。

その戦争も侵略のためではなく、日本という国を守るため、やむを得ないものでした。

そのような尊敬できる人々が存在した国に生まれたことを、私は誇りに思います。

先人たちの追い求めた理想を、私たちが繋いでいかねばなりません。


この世に特別な人間はいない。

全員が特別な人間だ。

あなたはどちらだと思いますか。

生きることは当たり前のことだ。

生きることは奇跡だ。

すべては心一つの置きどころです。
誰もが、自分の中の雑念を消せば、真理の中で生きることができます。

答えは生まれたときから、すべて自分の中にあるのです。
自分が霊魂であり、宇宙霊の一部だとわかれば、どんな時も独りではありません。

人間は、常に宇宙霊と繋がっているのです。

 

万物は、初めからこの世に存在していたので、すべての発明は、発見と考えることができます。

だから、この世界に存在する、あらゆるものを所有する権利は誰にもありません。

すべては一つであり、分けることなどできないのです。

 

苦しみがあるから楽しみがあり、悲しみがあるから喜びがあります。
だから、喜びだけの人生など存在しないのです。

もし、それがあるとするならば、それは喜びのない人生と同じはずです。

だから、苦しみも悲しみも、私たちの人生に必要なものなのです。

 

最後は、中村天風の言葉で締めくくりたいと思います。

「人間はこの世に苦しみにきたわけではない。

進化と向上という使命を果たすためこの世にやってきたのだ。」

46.日本民族

「かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂

吉田松陰

 

私たちが普段目にする世界地図は、日本が中心になっています。

そのため、日本を極東の国といわれても、ピンとこないかもしれません。

現代のように文明が発達する前の世界では、太平洋を横断することは難しかったので、日本と欧米を行き来するには大西洋とインド洋を通るしかありませんでした。

その頃の世界の中心は中国大陸だったので、日本は極東の国と認識されていました。

そして、それは日本にとってもそうだったのです。


日本は極東の島国であったため、外国から攻められることが少なく、天皇制のおかげもあって、一度も国が滅びることがなく、文化も途絶えることがありませんでした。

日本は、現存する世界最古の国です。

 

中国は易姓革命を繰り返し、何度も王朝が変わっていて、文化が途切れています。

古代中国では、天人相関説といって、天と人は密接な関係があり、相互に影響を与えあっていると考えられていました。

なので、皇帝などの天子が、天命によって国を治めていると考えられていたのです。

しかし、天子や側近が徳を失い、国が腐敗していくと、革命が起こって王朝が変わります。

そのとき、新たな家系が天命によって定まると考えられていたので、天子の姓が変わりました。

 

欧州の専制君主政治の思想的な根拠は、大きく分けると二つあり、君主は神の代わりに国を治めているという王権神授説と、君主は人民との契約によって国を治めているという契約論があります。

どちらにしても、君主は強い権利を持っていたので、それは君主と人民を、権利を持つものと持たざるもの、支配する側とされる側に、はっきりと分けることになりました。

君主が暴君となり、王朝が圧政を敷くと、人民に不満が溜まり、革命が起こりました。

東洋では、天子が天の理によって国を治めようとするので、君民一体になることができました。

しかし西洋では、君主が権利によって国を治めていたので、君民一体になることは、初めから不可能だったのです。

なぜなら権利とは、自分と相手を分けることによって成立するものだからです。

 

日本において天皇は、国民にとっての真我、つまり人間においての霊性心のような存在でした。

宇宙が万物を育むように、国民の徳を明らかにするのが、天皇の徳だったのです。

そして、それは深い徳を宿しながら、表面は何もしない、玄徳無為でなければなりません。

天皇は、私室ではなく公室であるから、姓が要らないのです。

日本では天皇と、天皇を補佐して実務を行う将軍が分かれていたため、幕府が退廃すると、天皇の徳によって維新を行うことができたため、国が変わることはありませんでした。

実務を行う幕府と、天徳によって国を導いていく天皇の関係は、本能心や理性心を霊性心が導いていくことに似ていますね。

霊性心に善悪はありませんが、霊性心の働きによって、理性は善悪を判断できるのです。

革命は一度国を破壊して、新たに国をつくり直しますが、維新は人間が困難を乗り越えて成長していくことと同じで、国自体は変わりません。

革命というと聞こえはいいですが、革命には残虐性がつきもので、その裏では悲惨な虐殺が行われています。

革命家には、共通して強い権力欲があり、自分が権力を握るためには、何を犠牲にしても構わないという一面があります。

そのため、多くの血が流れることになるのです。

 

人間は集団になると、群衆心理が発生して、責任を放棄するようになります。

独りだったら思い留まるところを、集団になると野蛮人のように感情に任せて行動するようになるのです。

そのような劣悪な群衆心理を抑えることができるのは、強い民族精神だけです。

明治維新が明治革命にならなかったのは、日本に強い民族精神があったからなのです。

海外では多くの革命が起きたのに、日本では維新が起きたのは奇跡的なことなのです。

 

文明が発達する前、日本は中国から入ってきたものに大きな影響を受けました。

儒教道教、仏教は中国から入ってきました。

仏教はインド発祥ですが、中国を通じて日本に入ってきました。

それらを消化吸収して、日本の文化に取り入れ、自分のものにしてきたのです。

先ほどもいったように、中国は何度も王朝が変わっているので、日本は儒教道教、仏教についても、一番長い歴史を持つ国になります。


世界の文明が発達して、西欧がアジアへ進出してきたとき、日本は明治維新を起こし、近代化が遅れていたアジアの中で唯一、西欧と渡り合うことができました。
日本が極東の小さな島国であることを考えると、奇跡のようなことです。
第二次世界大戦では敗戦国となり、戦後、文化や教育に外国から手が加えられてしまいました。

しかし、日本はそれから、欧米などのさまざまな国の文化を吸収していきました。

食事について考えても、さまざまな国の食文化が日本に入ってきていて、それを自分のものに消化吸収しています。

それだけ日本には、海外の文化を吸収する優れた下地があるということです。

日本では海外の料理が、和食と変わらないくらい、日常の食生活に溶け込んでいます。
言語にしても、さまざまな国の言葉が日常的に使われていて、普段何気なく使っている言葉の中にも、難しい言葉がたくさんあります。

例えば、元気という言葉は、実は儒教の言葉なのです。

宗教について考えてみても、神道だけでなく、キリスト教や仏教の行事も日常に溶け込んでいます。

クリスマスを祝い、初詣に行き、お盆には先祖の霊を供養します。

 

進歩向上するために必要なものは、多様性とそれを支える土台です。

さまざまな文化が共存する日本は、まだまだ進歩向上していける余地を残しています。

しかし、それを支える精神性が失われかけているのです。

教育は表面的なものばかりで、古くから続く日本の長所や民族性を学ばないまま、大人になってしまうので、愛国心を持たない人が増えています。

日本の歴史や精神性を学べば、自分の中にぶれない軸となるものを見つけられるはずです。

もちろん歴史を学べば、良い面だけではなく、悪い面も見えてきます。

しかし、日本の未来のために命を賭けた偉人たちのことは学ぶべきです。
くだらない常識やしがらみを捨て、日本の中にあるさまざな国の思想や文化を中すれば、日本は世界平和をリードする国になれるのではないでしょうか。
日本から世界へ、真の世界平和への道を広げていけるのではないでしょうか。
かつて、日本の国名は大和(ヤマト)でした。

大いなる和を世界中に広げていけることを願います。

 

おすすめ書籍

安岡正篤「人生の大則」

45.地球の未来

「私はただ、まだ使える物が無駄になっているのを見ると怒りを覚えます」

マザー・テレサ

 

科学文明が発達することによって、地球の環境は大きく変わりました。

人間の住む場所を確保するため、森林は伐採され、生態系が乱れています。
資本主義において、経済を回すために、大量のゴミが生まれ、便利な生活に慣れた人間によって、海や大気が汚染されています。

地球の今の状態を病とするならば、その原因は人類にあります。

高い知能を持つ人類は、地球の未来を決める存在といっても過言ではありません。

これから人類は、地球が健康な状態に戻れるように、道理に背いた常識を覆さなければなりません。

人が健康になるためにはまず心を変えなければならないように、地球の未来を救うためには、まずは人類の心を変えねばなりません。

 

宇宙霊の持つエネルギーは膨大で、その宇宙霊と私たちの霊魂は繋がっています。

だから、人類の心が積極になって、大量のエネルギーを取り入れることができれば、地球は自然と完全な状態へ向かっていくはずです。

地球の病気を治すためには、まずは地球にすむ人類の心を積極化しなければなりません。

人類の心は、地球の心でもあるのです。

 

かつては人類は、他の動物と同じように、原始的な世界で生きていました。

しかし、文明が発達するにつれて、人類は高い知能を獲得し、地球を破壊できるほどの科学力を手に入れました。

また、それと同時に、その強大な力をコントロールするための理性も手に入れたのです。


地球の未来のために、人類は理性を働かせ、本能を抑えなくてはなりません。

強大な力を手に入れた人類が、本能のままに生きていると、地球はいずれ滅亡してしまうでしょう。

環境破壊は、人類が科学の力に頼りすぎているから、進行しています。

人類は文明を発達させて、自然から離れていき、ゴミという概念を生み出しました。

本来なら、地球にゴミという概念はありません。

落ち葉や排泄物、生物の死骸などは、すべては自然に還り、大地を肥やす養分となります。

しかし、人工的な環境の中では、古くなった物や不要になった物はゴミとなり、地球の環境を破壊する原因になります。

資本主義では、物が売れないと経済がまわらないので、永遠にゴミが作り出されます。

新しい物を売って、古い物を捨てていかなければ、資本主義は成り立たないのです。
便利な新製品が次々と開発される一方で、ゴミや有害な物質が発生し、地球環境が破壊されています。

人類の力による競争は、「いかに物を売って、利益を出すか」という知恵による競争に変わりました。

利益を出すために、詐欺などの犯罪行為に手を染める人もいるのです。


一方、共産主義はどうでしょうか。

共産主義では、財産を共同で所有することによって、平等な社会を目指そうとします。

それぞれが能力に応じて働き、共同の財産から、必要に応じて所得を受け取ります。

しかし、共産主義はすべての人が高い意識を持っていないと、成立しません。

すべての人が聖人君子ならいいのですが、現実ではそのようなことはあり得ないのです。

 

カール・マルクスは、資本主義は貧富の差が問題になり、いずれ崩壊すると予言し、共産主義社会が到来する必要性を主張しました。

そして、共産主義社会の第一段階として、まずは平等に働いて、平等に所得を受け取る社会主義が訪れると考えました。

ちなみに、社会主義では国が財産を管理するので、個人が財産を持つことは認められません。

共産主義では皆で財産を共有するので、国が管理するという制度が必要ないのです。

 

人間は本能心が働くので、できるだけ楽をしようとします。

もし必死に働いても、そうでなくても同じ給料が貰えるなら、仕事をさぼる人が当然あらわれます。

しかし、それでは社会主義が成り立たないので、絶対的な権力者が人々を従わせるしかなくなります。

ですが、人間は絶対的な権力を持つと、傲慢になって、精神的に堕落していき、遂には独裁者になってしまいます。

 

共産主義社会の到来の必然性を説いたカール・マルクスはどのような人物だったのでしょうか。

実は、マルクスは異常な性格の持ち主だったようで、神経質で挑発的かつ独裁的だったといわれています。

それのどこが問題なのかというと、カール・マルクスという人物と、唱える思想や言論が一致していないことです。

マルクスは、資本主義の崩壊と共産主義の到来を、論理的に考えて主張をしましたが、それは論理展開によって導き出しただけで、血の通ったものではありません。

実際、マルクスのような性格の人が大勢いたら、共産主義は成立しません。

結局、主義とか党派とか、そのような概念的なものでは、人はどうしようもできないのです。

それは、論理の遊戯であり、机上の空論でしかないのです。

地道に真理を学んで、それを実践していき、自分を根本から変える。

言いかえれば、根性を叩き直さないかぎり、人間は変わることがないのです。

 

人間は自由に生きるべきであり、個性は尊重されるべきです。

先人たちが命懸けで行動を起こしたから、誰もが自分の意思で自由に生きていける時代になりました。

しかし、個人の権利ばかりが主張されるのは間違っていると思います。

自由を得るための権利だったはずが、皆が権利を主張して、身動きが取りづらくなり、逆に不自由になってしまっています。

例えば、平等が主張されすぎると、出る杭は打たれるようになり、真の自由は失われてしまいます。

そして、多様性が失われて、人間が弱くなってしまうのです。


現代の社会は、少数の資産や特権を持つ人たちが自らの権利を手放すまいと、多くの貧しい人々が犠牲になっている状態だといえます。

自由になったはずの世の中ですが、その点では、中世の封建社会の頃と、それほど変わってないようにも思えます。

 

人類の科学技術は発展しましたが、その代わりに、地球の自然が破壊されています。

そして、人類は争いをやめることなく、戦争を繰り返しています。

このままでは、地球は遠くない未来に滅びてしまうかもしれません。

 

人類の常識を変えることができれば、地球の未来は変わるはずです。

戦争や環境汚染で、生物が地球にすめないような未来は防げるはずです。
そのためには、教育のあり方を見直して、一人ひとりの意識を変えていかなければなりません。

そして、世界平和を実現して、人類が一丸とならなければなりません。

 

昔は世界中で争いが起こっていましたが、今ではほとんどの争いが片付いて、それぞれの国の中は団結している状態です。

ならば、世界中の国が一つの国のようになることも不可能ではないはずです。

そのためには、宗教感の統一と、経済の仕組みの統一、人種や民族の偏見をなくすことが課題になります。

宗教感の統一は、すべての宗教は一つの真理を別々の言葉で説明しているだけだと理解して、それぞれの宗教を受け入れることです。

日本の中でも、神道や仏教、キリスト教など、さまざまな宗教が共存したいるので、不可能ではないはずです。

経済の仕組みの統一は、国境や関税における規制を緩めて、世界中が一つの国のようになることです。

日本もかつては、それぞれの地方にそれぞれの国がありました。

今では日本という一つの国に統一されています。

人種や民族の偏見をなくすことは、外見や思想にとらわれることなく、人間は皆同じ霊魂であると認識することです。

完全なる世界平和は無理だとしても、そこに近づいていくことは可能です。

そして、結局それは、人類すべてが真理を学び、霊性心を発揮できるように、地道に努力するしかないのです。

 

真理の中で生きていけば、万物は進歩向上していきます。

人類は、地球の未来に対して責任があります。

なので、一人ひとりが自分の問題として、環境問題をとらえなくてはならないのです。


資本主義でも共産主義でもなく、民主主義でも独裁主義でもない、それぞれの対立を超えて、一つ上の次元へ持っていくことができれば、人類はまだ進歩することができるはずです。

陰陽相対性原理に基づいて、相対する思想を中すれば、進歩に終わりはないはずです。

一朝一夕で人類の常識が変わることはありませんが、少人数でも真理を実践していけば、だんだんとその輪は広がり、いつか無理だと思うようなことが実現するかもしれません。

44.霊性心から生じるもの

「一つの灯火を掲げて一隅を照らす。そうした誠心誠意の歩みを続けると、いつか必ず共鳴する人が現れてくる。一灯は二灯となり三灯となり、いつしか万灯となって、国をほのかに照らすようになる」

安岡正篤

 

本能心からは、喜びや楽しみなどの積極的な感情や、怒りや不安などの消去的な感情、財欲や名誉欲などの欲求が生まれます。

そして、理性心からは正義や自己肯定などの積極的な感情や、後悔や苦悩などの消極的な感情が生まれます。

どちらの積極的な感情も、相対的なものなので、状況が変われば、消極的な感情に変わる可能性があります。

そして、霊性心からは、意志や勇気、思いやりが生まれ、どれもが絶対的な積極性を持っています。

状況が変わろうと、これは消極的になることはありません。

消極的になったと感じるならば、それは本能心や理性心があらわれてきたのです。

 

本能心は、自分と他人を分けて考えるので、利己的な感情や欲求が生まれますが、霊性心は自他の区別が曖昧なので、利他的といえます。

霊性心は霊魂由来のもので、霊魂は宇宙霊の一部でしたね。

宇宙霊に心があれば、誰に対しても平等なはずなので、誰か一人を特別扱いしないでしょう。

霊性心から生じる思いやりとは、他人のことを自分のことのように考え、力になってあげることをいいます。

徳があるということは、霊性心が強く発現しているということなのです。

また、霊性心から生じる勇気とは、周りの状況に関係なく、道理に合うことをすることで、いかなるときも積極的です。

血気にはやるだけのつまらない勇気を匹夫の勇といい、道理をわきまえていない向こう見ずな勇気を蛮勇といいます。

これらは、すぐに消極的に変わってしまったり、興奮することで一時的に勇しくなっているだけで、真の勇気ではありません。

 

江戸時代の終わり頃に、志という言葉がよく使われていましたが、夢と志はどう違うのでしょうか。

それは、利己的であるかどうかです。

志は、日本を異国から守るとか、地球環境を保全するとか、動機が利己的ではありません。
しかし、夢は、大金持ちになって贅沢したいとか、世界一の記録を残して名声を得たいとか、自分本位で利己的なものです。

夢が利己的なものでないならば、それは、自分のためでなく、世のために立てられた志なのです。

夢は本能心から生まれ、志は霊性心から生まれます。

 

霊性心で生きるとは、自他の区別なく、宇宙と一体になって、大きな視線から陰陽のバランスをとって、進歩向上していくことです。

霊性心から生じた意志や勇気は、怒りや欲求などよりも強い力を持っています。

もし、意志や勇気よりも、怒りや欲求の力が強ければ、創造より破壊の作用のほうが強くなるはずなので、宇宙はここまで進化していないはずです。

創造の力は破壊の力に勝るというのは、宇宙法則なのです。

強い意志を持っているならば、身体の痛みや心の苦しみに惑わされることはないはずなのです。


人生において最も大切なことは、真理の中で生きることです。

そのためには、日々鍛錬を続けるしかありません。

容易なことではありませんが、それは苦しみばかりの道ではなく、心一つで楽しむことができる喜びのあふれた道です。

人間は本能心だけで生きていると、楽をしようとして、堕落してしまいます。

そして、その先には苦しみが待ち構えています。

苦しみを楽しみに振り替えて、徳を少しずつ積んでいけば、いつか真理の中で生きられるようになります。

そうなれば、天と一体になり、天の造化をたすけることになるのです。

 

徳を積むと運気が上がるといいますが、それは、世のために良いことをすれば、霊性心が働いて、創造の作用が働くということです。

苛立ちながら生きていれば、破壊の作用が働いて、運気は下がっていきます。

 

現代に精神の病気が増えているのは、人間が真理から外れていることに、一番の原因があります。

人間は他の生物と同じで、宇宙から生まれた自然の生き物です。

人間には、人間に合った生き方があり、人間の理があります。

 

道と理の関係は、行動と知識の関係によく似ていて、道とは理の実践をあらわします。

宇宙法則に従って実際に行動していくことが道なのです。

だから、道と理は同じものの違う側面にすぎないのです。

道理とは、物事のそうあるべきことをあらわします。

 

この世のすべてのものに理があります。

言論の理は論理であり、心の理が心理であり、生体の理が生理です。

そして、この宇宙の理を真理と呼びます。

理に従わず、道から外れると、その先には破滅が待っています。

物質的に豊かな現代社会なのに、心を病んでしまう人が多いのは、人類が道から外れていることにその原因があります。

物質的に豊かでなくても、道理に従って生きれば、幸福になれるはずなのです。

 

心を積極的に保てば、宇宙霊から力を余分に受け取れます。

積極的な精神が、宇宙の創造の力と同調するからです。

不満を感じながら何かを行うよりも、楽しんで行うほうが、結果が良くなるのはこのためです。

怪我をしても、放っておけば自然と回復しますが、消極的な精神状態だと回復は遅れます。

破壊は通常、物事が行き詰まったとき、再生するためにやむを得ず起こるのです。

しかし道理に反すると、破壊の作用はすぐ生じます。

それは、病気やトラブルとなって、私たちの人生にあらわれてくるのです。

 

すべての人間が徳を育てる教育を受けて、真理のに従って生きていけば、人類の未来は明るいはずです。

積極的な精神を保てば、宇宙法則によって進化と向上が起こるのです。

そして、自分という垣根を越えて、他者を思いやることができれば、戦争のような悲惨な出来事は決して起こらないはずです。

地球を一つの生命体と考えれば、人間も他の生物も無生物も区別はいりません。


想いは、必ず誰かに伝わります。

そして、その想いに受け取った人が、また誰かに想いを伝えていきます。

テストで満点を取るためには、勉強して一点ずつ点数を上げていくしかありません。

同じように、想いを少しずつ広げていけば、いつかは無理だと思うような未来に辿り着くことができるはずです。

人間が戦うべきなのは、他人ではなく、自分の中の私欲や惰性なのです。

 

世界中の人類が当然のように真理を学ぶようになれば、世界は目に見えて変わると思います。

地球を一つの生命体と考えたとき、人類が地球を救う脳となることを願いましょう。

そして人類が、地球にとってのがん細胞にならないことを願います。


善いことをする人間ではなく、善い人間になりましょう。

悪人でも、その場しのぎで善いことができます。
少々間違ったことをしても、本質が善であれば、それは表にあらわれて、いずれ周りに伝わっていきます。

しかし、無理して善いことをしても、本質が悪ならば、いずれその正体は明るみに出るのです。

どれだけ善いことをしても、本質が変わらないかぎり、善い人間になることはできません。
だから、周りの目を気にせずに、自分が善いと思うことをしましょう。

自分の目も気にする必要はありません。

なぜなら、本能心や理性心というフィルターを通すことでしか、自分を見ることはできず、そこには、自分はこうあるべきだという決めつけが含まれているからです。

難しいことを考えず、心の底から善いと思えることをしていれば、それで良いのです。

 

おすすめ書籍

中村天風「成功の実現」

43.脳波と意識

「人間は自分のコンプレックスを除去しようとつとめるべきではなく、それと調和を保つようにつとめるべきです」
ジークムント・フロイト

 

脳波と意識は深い関係があり、周波数の低い順から、デルタ派、シータ波、アルファ波、ベータ波、ガンマ波があります。

アルファ波より周波数が低いものを徐波と呼び、シータ波とデルタ波がそれにあたります。

通常成人が覚醒している時は、ベータ波と呼ばれる脳波が発生しています。

そして、リラックスしているときはアルファ波が発生し、浅い眠りのときはシータ波、深い眠りの時はデルタ波と呼ばれる脳波が発生します。

また、リラックスしている時だけでなく、目を閉じるだけでも、アルファ波が発生することがわかっています。

つまり目を閉じるだけで、脳への情報がある程度遮断されるので、脳がリラックスするのです。

頭が混乱していると思ったら、脳をリラックスさせるために、うまく時間をとって、一分間目を瞑るようにしましょう。

また、昼間に仮眠を少しとるだけで、脳のパフォーマンスがかなり回復することもわかっています。

しかし、仮眠を三十分以上とると、起きたあとに眠気が続き、本来のパフォーマンスが発揮できる状態になるまで時間がかかってしまいます。

なので、仮眠は三十分以内にしましょう。

 

浅い眠りのことをレム睡眠といい、レム睡眠は脳の整理をするために必要な時間になります。

レム睡眠の間、実はまぶたの下で眼球が高速で動いています。

ショックなことがあったときに、視線を左右にすばやく動かすと、脳がその事実を受け入れるスピードが早くなるといわれています。

その理由は、右脳と左脳が同調して、脳がよく働くからだそうです。

嘘をつくときや、動揺したときに、人の視線が激しく動くのも、脳を落ち着けようとしているのかもしれませんね。

視界の左側は右脳、右側は左脳につながっていて、左脳の働きは論理的、右脳の働きは創造的といわれています。

なので、左側を見ながら話す人は、嘘をついている可能性が高いなどともいわれています。

左右を交互に見ると脳がよく働くなら、貧乏ゆすりをするときは、左右交互に足を動かすといいかもしれませんね。

 

夢を見るのはレム睡眠のときで、夢を見ているとき、脳は記憶の整理をしているといわれています。

夢は脳を整理する過程で、潜在意識から生じたイメージの映像なのです。

レム睡眠のときの脳波はシータ波であり、深い瞑想状態のときも、アルファ波の中にシータ波が増えてきます。

深い瞑想状態になると、覚醒している状態と無意識の状態の中間である、変性意識と呼ばれる状態になります。

この状態になると、潜在意識の中に顕在意識が入り込みやすくなり、潜在意識が顕在意識に現れてきやすくなります。

潜在意識と顕在意識の境界線が薄くなるのです。

変性意識をわかりやすくいうと、体は眠って、心は起きている半覚醒状態です。

安定した精神状態で瞑想を行い、変性意識の状態になれば、潜在意識のとらわれや恐怖が消えていきやすくなります。

 

意図的に変性意識の状態に持っていく方法に、ヘミシンクと呼ばれるものがあります。

ヘミシンクは、ヘッドフォンで左右の耳に違う波長の音を流し、その波長の差によって、左右の脳を同調させ、意識を変性意識の状態へと持っていくのです。

音声ガイダンスに従って、頭の中にイメージを浮かべながら、変性意識の状態に入っていきます。
瞑想は思考を停止することによって変性意識状態になりますが、ヘミシンクは逆に想像力を働かせることで、変性意識状態になるのです。
ある程度瞑想をやってみて、行き詰まりを感じたら、ヘミシンクをやってみるのもいいかもしれません。

瞑想を違う目線からとらえる、良い機会になるかもしれません。

他にも、変性意識状態は、極限まで追い込まれたときや、覚醒剤などを使用したときなどでもあらわれます。

 

急速眼球運動を伴わない深い睡眠をノンレム睡眠、または徐波睡眠と呼びます。

レム睡眠のときは、大脳皮質が強く活動していますが、ノンレム睡眠のときは、脳が休息状態に入ります。

なので、夢をみることもないといわれています。

ぐっすり眠らなければ、体は休むことができても、脳は休むことができないのです。

 

人間の意識は、さまざまなところに移動し、それを映し出します。

テレビのチャンネルを変えることで、番組が変わることに似ているかもしれません。

体のどこかが痛むときは、その部分に意識が集中しているし、運転しているときは、視界が意識を占領しています。

雑念が浮かんでいるときは、意識のうちの何割かが、どうでもいいことを映し出しているのです。

雑念はテレビでいうと、ノイズのようなものです。

眠ることは、テレビの電源を消すことに似ていますね。


注意力が散漫な人は、意識が映し出す対象が、知らぬ間に変わってしまいます。

飛んできたボールをキャッチするには、意識をボールに集中し、グローブに入る瞬間まで、ボールから意識を離してはいけません。

ボールにあった意識を、キャッチする前に他の場所へ移してしまえば、ボールはキャッチできません。

注意力が散漫な人は、最後までボールに意識を集中させることができないのです。

もちろん、普段からキャッチボールをしていれば、無意識でもボールをキャッチできるようになります。


注意力が散漫には、煙草を吸うことが有用だそうです。

ニコチンには心を落ち着ける作用がありますが、それ以外にも、煙草を吸って一息おくという行為にも、意味があるのかもしれません。

 

自然界にはパニック状態の人間のように、極端な動きをするものは、ほとんどありません。

自然界のものは、緩やかに曲線を描くように動いていきます。

人間も、その自然の流れから離れないことが大切です。

危険を感じた動物も、ビクッとすばやい動きをするのは一瞬だけです。

機械化の進んだ現代社会に無理に対応しようとすると、脳はついていけずに、不調をきたしてしまいます。

 

潜在意識を掃除していくうえで大切なのは、リラックスして心を開いた状態で、恐怖を感じた出来事を少しずつ受け入れていくことです。

そうすることで、その記憶を通常の記憶と同じ場所に移していくことができます。

そのためには、記憶の中で捻じ曲げてしまった事実を、ありのままに見つめ直すことが求められます。

 

広場恐怖症といって、特定の場所に強い恐怖や不安を感じてしまい、日常生活に支障をきたしてしまう病気があります。

例えば、電車やバスに乗れなくなってしまうのです。

しかし、電車やバスに乗ることで、命に危険が及ぶことはありません。

その間違った認識を塗り替えるには、実際に電車に乗って認識を変えるしかないのです。

頭の中でいくら予行練習をしても、想像と現実は異なります。

心の奥底にある避けているものと向き合うことが、現実とのズレを解消して、本当の自分に向かっていくためには必要なのです。

何かを経験すれば、それに対して感情が生まれ、その感情に何らかの判断をします。

そして、それを積み重ねていくうちに、自我がつくられていきます。

例えば、幼い頃に人前で発表して、笑われて恥ずかしい経験をしたので、人前で話すことは恐怖と判断したとします。

するとその経験は、心の傷となって潜在意識に残ってしまうのです。

実際は人前で話すことは怖いことではなく、笑われることによって、身に危険が及ぶことはありません。
生きているうちに、さまざまな経験と判断が積み上げられて、現実とズレのある自我がつくられていきます。

だから、人間が見ている世界は、自我というフィルターを通して見ている世界であり、一人ひとり見ている世界は違うのです。

人間が見ている世界は、物理的な現実の世界とは違うことを覚えておきましょう。

 

地球を一つの生命体と考えれば、すべての生物の意識がどこかで繋がっていても、おかしくはありません。

地球上の島をそれぞれの意識と考えれば、海底を通して、島はすべて繋がっているように、それぞれの意識は、集合意識によって繋がっているかもしれません。

人が無意識のうちに他人を助けるのは、集合意識で繋がっているためとも考えられます。

しかし、人間に自我が芽生えると、本能心がそれを邪魔をしてしまうのです。


心の世界は人それぞれ違いますが、意識の奥底にある集合意識は、皆同じなのかもしれません。

そこが宇宙霊であり、陽明学でいう良知であり、仏教でいう涅槃であり、道教でいうタオなのかもしれません。

道教では、万物の根源とその法則をタオと呼びます。
瞑想によって、変性意識状態に達するためには、観測する自分を、さらに観測する目線があれば、上手くいきやすいといわれています。

それは、自分の霊魂をみる宇宙霊の目線といえるかもしれませんね。

42.陽明学

「志が立たねば、天下に成るべきのことなし」

王陽明

 

儒教における聖人とはどのような人物をさすのでしょうか。

私は物事の根本に通じた、徳の高い偉大な人物を思い浮かべます。

明代の儒学者である王陽明は、あるとき弟子に「聖人と呼ばれる人の中にも、優劣の順があるのではないですか」と聞かれました。

すると王陽明は、「聖人とは天理に従って生きている人のことであって、知識や技能は関係ありません」と答えました。

聖人たちの中にも、才能に優劣はあるかもしれません。

しかし、天理に従って生きているという点では変わりがないのです。

例えば、二種類の大きさの違う黄金があったとします。

どちらも金の純度が百パーセントなら、大きさや重さが違っても、どちらも完全な黄金という点では同じです。

大切なのは大きさや重さではなく、純度なのです。

どんなに大きな黄金でも、純度が百パーセントでなければ、小さくても完全な黄金には及ばないのです。

王陽明が言いたかったのは、知識や技能などの表面的な能力よりも、内面の心のあり方のほうが重要だということです。

 

天理に従って生きるとは、宇宙真理の中で生きることであり、霊性心で生きることです。

造化と共に生きて、進化と向上という人間の使命を果たすことです。

 

王陽明は十代の頃、世のために役に立つ人間になろうと聖人を志しました。

その当時、儒学の主流は朱子学であり、「万物の理を極めることによって、聖人になれる」と一般的に考えられていました。

ちなみに朱子学は、王陽明が生まれる前の宋代に構築されています。

「草木にも理がある」という朱子学の教えを掴むため、王陽明は不眠不休で竹を見続けますが、草木の理は見つけられず、もともと体の弱かった王陽明は体調を崩してしまいます。

そして、「こんな自分が聖人になれるわけがない」と自暴自棄になってしまいます。

 

その後、十八歳の時に王陽明は、婁一斎という儒家に出会い、「聖人は学べば必ずなれる」と言われます。

そのとき、ハッと気づかされるものがあり、先ほどの黄金の話ではないですが、「自分にそれほどの才能がなかったとしても、学び続ければ聖人になれる」と思い直して、再び聖人を志します。

 

朱子学を構築した朱熹は、宇宙は気と理という二つの要素によって成り立っていると考えました。

気は宇宙に充満する気体のことであり、理は宇宙法則のことです。

そして、朱熹は「性即理」といって、人間の「本性」は理と一体であると考えました。

朱熹は、人間の本性を善と考えていたので、朱子学性善説の立場を取っています。

しかし、人間の心には「本性」以外にも、気から生じる「感情」があるので、人間は性善なのですが、完全な善ではないと朱熹は考えました。

人間の心にある「本性」と「感情」は別のもので、本性である理を、生まれた後に学ぶことで、人は善になれると考えたのです。 

 

儒教経書である「大学」に「格物致知」という言葉があります。

朱熹はこれを「知をいたすは物にいたるにあり」と読み、万物の理を極めることで、知識を深めていけると考えました。

つまり自分以外のあらゆる物から、理を学ばなければならないと考えたのです。

しかし王陽明は、自分以外の物から、理を学ばなければならないということが、どうしても納得できませんでした。

さらに、あらゆる物の理を極めるには、時間がかかりすぎると考え、自分の心の中に理を求めるようになりました。

 

あるとき王陽明は、「理は自分の外にあるのではなく、中にある」と考えつきます。

そして、王陽明は「心即理」といって、人間の心は理そのものであると考えました。

心が私欲で曇ってなければ、心のあり方は理と一致するので、理は自分の中から学べると考えたのです。

王陽明は、朱熹のように人間の心を、理と気の二つの要素に分けずに、理は気の法則で、気は理の運用であると、一つのものの違う側面だととらえました。

 

王陽明は「大学」にある「格物致知」を、「知をいたすは物をただすにあり」と読み、物事の善悪を正すことによって、知識を深めていけると考えました。

そして、それを可能にするのは、良知という生まれながらにもっている良心だと考えたのです。

良知とはつまり、真の自己であり、霊性心のことです。

王陽明は、自分以外のものに頼らずに、自分の心の中から理を学ぶことができると考えたのです。

しかし、心の中に私欲があると、良知は私欲で覆われてしまうので、発揮できません。

だから、黄金の例えではありませんが、私欲を完全に消して、天理に従うことを重要だと説いたのです。

心の中にある私欲を消して、自分の良知に到達することを「致良知」といいます。

 

朱熹は学問の研鑽を積むことで、聖人になれると考えましたが、王陽明は良知に至れば、誰もが聖人になれると考えました。

朱熹は、人は後天的に善になれると考え、王陽明は、人は生まれつき善だと考えたのです。

 

王陽明は、儒教に行き詰まった時に、仏教や道教も学んでいました。

仏教は真つまり、ありのままをみようとします。

儒教は善つまり、良いものをみようとします。

例えるなら、雑草を刈って花を育てるのが儒教で、雑草を刈らずにありのままで花を育てていくのが仏教です。

理想を追い求める形式的な儒教と、論理的かつ現実的な仏教、そのどちらからも王陽明は影響を受けているのです。

 

自分の中に理を探すという発想は、釈迦から影響を受けたと思われます。

しかし、悟りを得るために家族を捨てて、釈迦が苦行に出たことについて、王陽明は納得できませんでした。

王陽明は「肉親への想いまで捨てろという教えは間違ってる」と、家族を捨ててでも、自らの悟りを開くという発想を許せなかったのです。

そのため、王陽明はまた儒教に戻ってきたのでした。

 

自分に良知があれば、他人にも良知があると考えられるので、そうであれば、すべての人間の価値は等しいという考えに至ります。

ならば、自分を大切にするように、他人を大切にしなければなりません。

これを、「万物一体の仁」といいます。

人間は、万物一体の仁を持ち、さらに、これを知覚する良知も持っています。

ならば、良知を発揮して、自分の才能や能力に応じて皆が働けば、理想郷ができると王陽明は信じました。

身分の差はあっても、身分の高いものは高いなりに、低いものは低いなりに、自分の生活に満足すれば、幸福な社会が実現するはずです。

人間の心は、生まれつき理と一体なのだから、問題の根本である私欲を消して、良知を発揮できれば、理想郷は実現できると王陽明は考えました。

災いの原因になる私欲を完全に去ることを、抜本塞源論といいます。

 

知識を得ることと行動することの関係について、朱子学では「知先行後」といって、まず知識を得て、そのあとに行動すると考えます。

知識を得ることと、それを実践することを分けて考えているのです。

しかし王陽明は「知行合一」といって、知ることは行動することの始まりであって、行動することは知ることの終わりだと考えました。

知っていても、行動しなければ知らないことと同じであり、行動することによって、初めて本当に知ることができると考えたのです。

これは「心の中で自分がすべきと知っていることは、自ずと行動にあらわれる」という王陽明の経験から生まれたものかもしれません。

 

知識は持っているだけでは役には立たず、実践することで初めて役に立ちます。

実践できる知識のことを見識といい、逆境の中でも、実践できるようになれば見識は胆識となります。

知行合一はある意味、胆識と同じものと考えられます。

現代にはそぐわない例えですが、銃の撃ち方を知っていることが知識であり、射撃場で実際に銃を撃てることが見識になります。

そして、実戦で人間に向かって拳銃を撃てることが胆識です。

車の運転の仕組みがわかっても、運転できなければ意味がありません。

簡単に情報が手に入る現代では、見識にならない知識が増えてしまいがちです。

知識を得たら、実践できる見識にするよう心がけましょう。

 

おすすめ書籍

安岡正篤王陽明 知識偏重を拒絶した人生と学問 現代活学講話選集7」

41.自己陶冶(じことうや)

「千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす」
宮本武蔵

 

日本刀を作るには、強靭な鋼が必要です。

鋼を加熱し、槌で打つことによって、鋼を鍛える作業を鍛錬といいます。

槌で鋼を打つと、不純物が火花となって飛んでいくので、鋼の純度を上げることができます。

鋼を叩いて薄く延ばしたあと、それを折り返し、またそれを打ち延ばしたあと、折り返しと何度も繰り返すことによって、純度の高い強靭な鋼が作られます。


私たちも鋼を鍛錬するように、自分の心から不要な本能心を取り除いて、強い心をつくっていかなくてはなりません。

内省検討をして、心の中に不純物を見つけたら、安上打坐法を行って、それを火花のように飛ばしてしまいましょう。

何度も鋼を折り返すように、寝る前に、鏡に向かって命令口調で自分に暗示をかけて、心を鍛えていきましょう。

そして、霊性心の純度の高い強靭な心をつくっていくのです。

弱肉強食の世界では必要だったけど、現代では不要になった不要残留本能心を、心の鍛錬を繰り返し行うことによって、整理していきましょう。


悪い習慣をなかなか断ち切れない時は、まずは少し価値の高いものに置き替えて、段階を経てやめていくようにしましょう。

例えば、煙草を辞めたいなら、まずは煙草をガムに置き替えていき、少しずつ煙草の量を減らしていきます。

運動不足だけど、外で走ることが億劫なら、まずは散歩から始めましょう。

 

習慣は第二の天性というように、良いことを習慣にするようにしましょう。

幕末の国学者である飯田忠彦は、昼は宮家に出仕し、夜は義父の晩酌の相手をして、その後に毎晩「大日本史」の続編を執筆し、「大日本野史」を完成させました。

アメリカの詩人ロングフェローは、毎朝朝食前の十五分を利用して、イタリア文学であるダンテの「神曲」の大翻訳を完成させています。

人生は習慣の織物というように、良い習慣を毎日続ければ、一日の時間は短くても、トータルすれば莫大な時間になります。

通勤や昼食時などに、講演の音源を聴いたり、読書をするのもいいでしょう。

目覚ましのアラームをブザー音にして、毎朝目を覚ますと同時に、安上打坐法を行うこともお勧めです。

良いことを強引にでも習慣化できれば、人生で考えると、とてつもなく大きな違いが生じるのです。

 

心が消極的になってしまい、そこから抜け出せないときは、心の向く方向を変えてあげましょう。

例えば、自分の好きなことに心を集中して気を打ち込むことができれば、自然と精神は統一されるので、雑念はなくなります。

無心になって霊性心が発揮されれば、本能心と理性心は消えてしまうのです。

消極的なときこそ、何か熱中できるものに意識を集中させましょう。

 

何をするときも、好きなことをしているつもりで、なるべく夢中になって取り組むようにしましょう。

どのようなことでも、気の持ちようで、楽しみや喜びを見つけることができます。

だから、どのような仕事でも、心一つの置きどころで、天職になり得るのです。

嫌々働いても、心は消極的になっていくばかりで、良いことは一つもありません。

 

幼い頃に健康上の問題があったり、家庭環境が悪かったりすると、その時に感じた消極的な感情が潜在意識に強く刻み込まれることで、不要な自我が形成され、生涯にわたってそれに悩まされることになります。

だから、親は子どもに強いストレスを与えないよう気をつけないといけません。

幼い頃の環境は自分で決めることができないので、潜在意識の中の不要な自我は仕方がないものですが、大人になったら自己陶冶を行って、それを少しずつ消していかなくてはなりません。

それは、幸福に生きるために必要なことなのです。

 

人間には徳と才という二つの要素があります。

徳とは優しさや勇気などの人格をさし、才は能力や技術などの才能をさします。

そして、才よりも徳が多い人物を君子といい、徳よりも才が多い人物を小人といいます。

小人は自分の欲望をコントロールできないので、放っておくと悪いことをしてしまいます。

トラブルを起こすのは、才のない人間でなく、徳のない人間なのです。

だからまずは徳を積んで、君子になることを目指しましょう。

徳を積むことは、中道を生きることや、霊性心を発揮することと同じことです。

心の中にある不純なものを消して、人は心を整理していかなければならないのです。

 

学んで宇宙真理を体得することも、儒教でいう徳を積んで君子になることも、仏教でいう自我を消して悟りを開くことも、神道のかんながらの道を清く明るく生きることも、すべて自己陶冶を行って霊性心で生きることなのです。

かんながらというのは、あるがまま、神の意志のままという意味です。

心の中にある消極的なものを消して、霊性心で生きることができれば、誰もが苦しみから解放されて、安心して生きることができます。

皆がそうなれば、政治は正しく行われるようになり、世界は平和へと向かい、人類は造化と共に生きることができるでしょう。

鋼を何度も槌で打って、不純物を飛ばしていくように、毎日毎日少しずつ心の中の消極的なものを減らしていくようにしましょう。

そして、心と体どちらかに偏るわけではなく、陰陽のバランスがとって、心身を統一した状態で生きていけるようになりましょう。

40.心の使い方

「事を成し遂げる秘訣は、ただ一つの事に集中することにある」

エイブラハム・リンカーン

 

心の中に雑念があると、自分の能力をフルに使って物事に取り組むことができません。
頭の中の作業台であるワーキングメモリーを雑念で埋めてしまったら、作業の効率は落ちてしまいます。

ワーキングメモリーの四割が雑念で埋まっていたら、六割の能力しか発揮できないことになります。

つまり、雑念を浮かべて生きていると、自分の価値を落としてしまうのです。
何をするにしても、一意専心で物事に取り組みましょう。

カメラを撮るときのように、心のピントを今からすることに合わせて、気を打ち込んでするようにしましょう。

 

おっちょこちょいとか、ドジとかいわれる人は、一人のときできることが、周りに人がいるとできなくなります。

その理由は、周りに人がいると、ワーキングメモリーが緊張や焦りで埋まってしまい、精神を集中して使うことができなくなるからです。

こういう場合、その人の能力が低い訳ではなく、心の使い方に問題があるのです。

つまり、気が散ってしまっていて、行為に気が打ち込まれていないのです。

 

発達障害の一つの注意欠陥・多動性障害では、衝動性、多動性、不注意がみられます。

意識を何かに集中させると、次すべきことに意識を上手く移せないので、どうしても不注意になってしまうのです。

例えば、ズボンにシャツを入れ忘れたり、忘れ物を繰り返します。

また、意識を上手く移せないので、遅刻をしたり、怠惰に休日を過ごしてしまいます。

一度意識を集中させると、それに強くこだわるので、衝動的に行動してしまいます。

例えば、人の話を遮って喋り出したり、話がいきなり飛んだりするのです。

幼い頃は、興味のないことには集中できず、じっとしていられないので、多動性がみられます。

これらのことを改善するには、意識して心をうまく使うしかなく、すること一つひとつに気を打ち込んでいくしかありません。

ヴィッパッサナー瞑想をするときのように、一つひとつ頭の中で確認しながら、ゆっくりと意識を移していくしかないのです。

 

文字を書くときも、気が散った状態で書くと、読みづらい散らかった文字になってしまいます。

人間の想像は具現化するので、どんな文字を書くかイメージしてから、それをなぞるように書けば上手く書けます。

文字に性格が表れるといわれるのは、文字はその人自身の思考の表れだからなのです。

絵を描くときも、考えなしに絵を描き始めると上手くいきませんが、頭の中でイメージ作ってから描き始めると上手くいくはずです。

 

ワーキングメモリーの上にあらわれ、邪魔をしてくる雑念には、さまざまな種類のものがあります。
本能心から生じるものには、焦りや緊張、不安、恐怖、欲求不満、妄想、妬み、執着などがあり、理性心から生じるものには、後悔や罪悪感、葛藤、煩悶などがあります。

正確には、葛藤や煩悶は、本能心と理性心がせめぎ合うことで生じます。

例えば、「嘘をついて責任から逃れたい」という本能と、「嘘はつくべきではない」という理性がせめぎ合うことで、心に悶えが生じてしまうのです。


物質的なものを優先する物質主義者は、本能心から雑念が生じやすく、精神的なものを優先する精神主義者には、理性心から雑念が生じやすくなります。

どちらも雑念に悩まされることは変わりありませんが、精神主義者は理性と本能による葛藤に悩まされるので、神経衰弱やノイローゼになりやすい傾向があります。

物質主義者は本能心だけがストレスの原因になりますが、精神主義者は本能心も理性心もストレスを受けることになるのです。

だから精神主義者より、物質主義者のほうが悩みは少なくなります。

しかし、ここでも重要なのは、陰と陽のバランスなので、どちらかに偏りすぎないようにしましょう。

 

価値観は、時代と共に変わっていき、善悪の基準は絶対的なものではありません。

また、個人で考えてみても、歳をとって知識や知識が豊富になると、善悪の基準は変わっていきます。

だから、理性とは相対的なものであり、ある人にとって正しいことが、他の人にとっては悪いことになるかもしれないのです。

しかし、宇宙真理は絶対的なものであり、人によって答えが変わることはありません。

例えば、他国に攻め入ることの善悪は時代によって変わりますが、陰陽相対(待)性原理は決して変わりません。

同じように、理性心と本能心はその時々で答えが変わりますが、霊性心は決して変わることがありません。

だから霊性心で生きることができれば、迷いや悩みは消えていきます。

 

霊性心は、主に潜在意識の中にあるので、なるべく潜在意識を普段から使うようにしましょう。

潜在意識を使って生きることができれば、顕在意識を煩わせないので、疲れが軽くなります。

潜在意識を使うというのは、特別に意識せず何かをするということです。

例えば、車の運転も慣れてしまえば、特に意識しないでも乗れるようになるので、乗り始めの頃に比べと、運転の疲れは軽くなります。

何かを顕在意識のうえに浮かべていると、知らず知らずのうちに脳は疲れていくのです。

 

何かをするときは、雑念を消して、心を集中して一つのことに打ち込むようにしましょう。

そして、雑念が生じやすい顕在意識を使わずに、なるべく霊性心のある潜在意識を使いましょう。

以上の二つが、心を上手く使うコツになります。

人類の偉業はすべて心によって達成されていて、人の心とはとても優れたものです。

しかし、どれほど優れたものであっても、使い方を間違えれば、その真価を発揮することができません。

心をどこに置いて、どう使うか、普段から意識するようにしましょう。

39.心一つの置きどころ

「心の持ち方一つが結局人生の運命を決定するんだ」

中村天風

 

人間は生まれるときに、その材料を集めてきてつくられるわけではなく、もとからこの世界に存在するものでつくられます。

そう考えると、人間はエネルギーを再利用することで、生死を繰り返していることがわかります。

人間がどのようにつくられるのか考えてみましょう。

 

まず、男性の精巣から射精された無数の精子のうちの一つが、女性の卵巣から排卵された卵に入り込み受精が起こります。

すると初期発生が起こり、精子と卵の核が融合して、受精卵は細胞分裂を始めます。

受精卵は、分裂を繰り返しながら、卵管から子宮のほうへ移動し、子宮内膜に着床すると、妊娠が成立します。

 

人間が生きるためには酸素が必要なのですが、心臓が血液を全身に巡らせることで、酸素が全身に運ばれます。

数分間呼吸ができなければ、人間は死んでしまうのです。

しかし、人間はその心臓よりも先に、脳や延髄のもととなる神経管が形成されます。

生きるために必要な心臓よりも、心が活動するために必要な脳が先につくられるのです、

人間にとって、本質に近いのは心だということがわかります。

父の気が精子を通して母の卵に伝えられ、二人の気が混ざり合うことで、人の心は活動を始めるのです。

 

心とは霊魂である気の動きのことをあらわし、その気が固定されることで体ができます。

手相は性格をあらわすといいますが、気が固定されることによって相がつくられていくのです。

だから、根本にあるのは心であり、その心が働くことで体が保たれます。

このことから、自分をつくり変えるなら、まずは心をつくり変えなければならないとわかります。

枝葉の問題を解決しても、根本を変えないとまた同じ問題が起こるからです。

人間を植物に例えるなら、根が霊魂であり、幹が心、枝葉が体に当たります。

 

人間の死とは、心がなくなることを指し、心がなくなることで、体は形を保てなくなります。

脳死状態は、本能心や理性心は消えていますが、植物心や物質心があるので、体が形を保っていられるのです。

 

現代医療は、体の異常を治療することは得意ですが、心の問題を解決することは苦手です。

しかし、本当ならまずは心の問題を解決すべきなのです。

江戸時代の儒学者である貝原益軒は「養生訓」にて、「医は仁術なり、仁愛の心を本とし、人を救うを以て志とすべし。わが身の利養を専らに志すべからず」と書いています。

これは、「医術とは思いやりと慈愛を持って人を救うことを目的にするべきであり、我が身の利益を目的にしてはなりません」という意味です。

しかし現代医療では、まず解決すべき心の問題が置き去りにされています。

医者は病院が必要のない世の中をつくることが仕事のはずですが、日本中どこに行っても病院が目に入ります。

体だけを診て、その症状を改善する薬を処方し、その原因となった心には関知しない。

それでは、病が減っていくわけがないのです。

 

自分を幸福と思えるかどうかは、心がどう思うかであって、そこに客観的な尺度は存在しません。

金持ちでも不幸な人はいるし、貧乏でも幸福な人はいます。

幸福な人生を送れるかどうかは、結局は心の置きどころ次第なのです。
五体満足でも不幸な人はいるし、障害を持っていても幸福な人はいます。

自分を幸福にできるのは自分だけであり、他人は自分を不幸にも幸福にもできません。

周りの人も関係があると思うのは、自分の心が周りの人を気にしているからなのです。

 

人間は、一人ひとり霊魂を持っています。

そして、霊魂は宇宙霊の一部であり、宇宙霊はこの世界の創造主です。

つまり、人間は一人ひとり神を持っていることになります。

そして、自分の神を守ることができるのは、自分だけです。

他人の神に関わることはできないし、誰かが自分の神に触れることはありません。

だから、まずは一人ひとりが、自分の神を大切にすることが重要です。

他人のことは、後回しでいいのです。

他人のために何かをして、自分が嫌な思いをするのは、本末転倒であり、自分の神への冒頭になります。

そんなことになれば、自己中心的な人間が増えると心配になるかもしれませんが、神を大切にする気持ちがあれば、自分の神を優先するにしても、他人の神を粗雑に扱ったりはしません。

だから、まずは自分の神をしっかり守りましょう。

 

人間の欲は底が知れず、物質的な満足を求めていてもキリがありません。

一つ手に入れたら、二つ欲しくなり、三つ四つと欲しくなるのです。

生活が裕福になっても、すぐにその生活に慣れてしまい、さらなる裕福な暮らしを求め始めます。

欲に縛られて生きる人は、本能心に振り回される奴隷のようになってしまい、いつまでも欲求を追い求めます。

しかし、いつまでも欲求は満たされることがないので、欲求不満は募るばかりなのです。


まずは自分の置かれている現状に満足して、感謝することが重要です。

不満を口にすれば、不幸になるのは当たり前です。

なぜなら、自分で消極的なものに力を注ぎ、自分を悪いほうへ誘導しているからです。
中国の古典である「老子」には「足るを知れば辱しめられず、止まるを知れば殆うからず。以って長久なるべし」とあります。

「満足を知れば屈辱とは無縁になり、ほどほどを心得ていれば危険もありません。このようにして安らかに暮らしましょう」という意味なのですが、現代人はどうもこれが苦手のようです。

すぐに不満を口にしたり、他人を羨んで、ただ生きていることが、どれだけ幸福なことか、すぐに忘れてしまうのです。

生きていることを当然のように思って、「もっといい暮らしがしたい」と自ら不満をつくりだし、不幸になっていくのです。

たった今、こうして生きていることは特別なことだと胸に留めておきましょう。


二十歳までしか生きることができないと言われた人が、三十歳まで生きることができたら、三十年も生きられたと感謝するかもしれません。

しかし、九十歳まで生きるつもりだった人が、三十歳で死んでしまったら、落胆してしまうでしょう。

それなら、幼い頃に二十歳までしか生きることができないと言われた人のほうが、幸せな人生になるかもしれません。

同じ三十年の人生でも、心一つの置きどころで大きな差が生まれるのです。

 

今がどれほど困難な状況でも、生きていることは特別なことです。

今日を大切に生きていきましょう。

今日という日は、残り少ない人生の最初の一日なのです。

人生はあっという間に過ぎていきます。

悩んでいる時間はありません。

だから、困難に直面したら、宇宙が心の持ち方に問題があると教えてくれていると思いましょう。

それをきっかけに心を入れ替えていければ、ピンチはチャンスに変わります。

 

「もうダメだ」と思うより、「うまくいく」と思って行動したほうが、結果は良くなります。

そして、それに気づけるか、気づけないかで大きく人生は変わっていくのです。

真理は案外こういうところにあります。

 

仕事をするときも、無職の気分になれば、働けることは幸せだと思えるはずです。

食事をするときも、食べ物がない状況を思い浮かべれば、食事をとれることは幸せだと思えるはずです。

夜寝るときも、寒い夜空の下で野宿することを想像すれば、布団で眠ることは幸せだと思えるはずです。

何でも、低い地点から現状をみて、感謝できるようになりましょう。

 

心には、思い描いていることを現実化する力があります。

だから、心は積極的なところに置くようにしましょう。

ナポレオンのように「吾輩の辞書に、不可能の文字はない」と思って生きていきましょう。

すべては心一つの置きどころなのです。

38.心身統一

「一度だけの人生だ。だから今この時だけを考えろ。過去は及ばず、未来は知れず。死んでからのことは宗教にまかせろ」

中村天風

 

顕在意識の積極化、神経の安定化、潜在意識の積極化の三つは、中村天風の心身統一法の三本柱を簡単に説明したものです。

正式名称は、積極観念の養成、神経反射の調節、観念要素の更改になります。

心身統一法は人生を幸福に生きていくために、六つの力と感応性能を強くすることを目的に組み立てられました。

 

心身統一法の六つの力とは、体力、胆力、判断力、断行力、精力、能力のことです。

胆力とは物事に動じない力のことで、逆境においても冷静でいられる心の強さになります。

精力とは粘り強さのことで、困難に屈しない強さを示します。

能力は実際に何かを行う才能のことで、例えば、絵を描いたり、料理をしたり、計画を立てたりすることなどが当てはまります。

 

感応性能とは文字通り、感じて応答する人間の性能のことです。

感応性能が弱いと、何か刺激が感じたときに心が過敏に反応してしまい、消極的になってしまいます。

感応性能が強ければ、強い衝撃があっても心を冷静に保っていられるのです。

胆力と似ていますが、胆力は刺激を受けたときに、それに負けまいとする心の強さをあらわすのに対し、感応性能は刺激を受けたときの、心の揺れ幅をあらわします。

なので、感応性能を強化すれば、心の動揺が少なくなるのです。

例えるなら、感応性能が怪我をしたときの痛みの感じ方で、胆力がその痛みに耐える強さです。

感応性能を強くすることが、心を安定させることに繋がります。

 

幸福に生きていくための理想論は数多く存在しますが、それらは綺麗事が並べてあるだけで、具体的な方法が示されていません。

そのようなことが書かれている書物を読むと、その時は偉くなった気分になれますが、実際は偉くなっていません。

人は概念などの表面的なものでは、決して変わることができないのです。

生活や習慣など根本から見直さなければなりません。

心身統一法には、実際にやるべきことが具体的に示されているので、それを習慣化すれば、自分をつくり変えていくことができます。

 

心身統一法は、中村天風結核になったことが原因で組み立てられました。

中村天風は、幼い頃から人一倍強い心を持っていて、他国で密偵として働いている時、実際に死を目前にしても、恐怖を感じないほどでした。

しかし、進行の早い結核になってから、死の恐怖にとらわれて、心が弱くなっていきました。

頼もしかった自分の心が弱くなったことを許せず、せめて死ぬ前に、強い心を取り戻したいと思い、その方法を探すために、世界へ旅に出ました。

しかし結局、それを掴むことはできず、諦めて日本に帰ろうとした時、あるヨガの聖者と出会います。

そして、その人のもとで修行することで、ついには強い心を取り戻し、結核を克服しました。

だから、心身統一法は幸福に人生を生きるための方法であり、心を強くする方法でもあるのです。

 

幸福に生きるためには、物質面と精神面どちらかに偏ってはいけません。

現代社会で生きていると、どうしても物質方面に偏ってしまいますが、幸福に生きるためには、まずは精神面が重要になります。

体がどれほど強くても、心が弱ければ、運命における困難や健康上に起こる問題を乗り越えていくことができません。

 

目的地に向かって歩き出せば、方向さえ間違えなければ、いつかは目的地に辿り着きます。

それと同じで、自分の目標を定め、正しい方法で日々努力すれば、必ず目標は達せられます。

目的地を決めた時点で、目的地に着くことは決定しているように、目標を定めた時点で目標を達成することは決まっています。

必ずやり遂げるという意志があるなら、その時点で目標は達成されているのです。

重要なのは、正しい方法で継続することです。

「おれの心は強くなる」と目標を定め、心身統一法を習慣化して継続すれば、必ずしも心は強くなるのです。

 

中村天風結核を治療していくうえで、ターニングポイントになったのは、聖者との問答によって生きることの喜びと感謝に気づいたことでした。

まだ自分は死んでいない。

そして、それは最も幸せなことだ。

結核の苦しみがそれに気づかせてくれた。

人生において一番大切なことは、喜びと感謝を持って生きることです。

喜びと感謝からは、消極的な心は生まれてきません。

そこから生じる積極的な精神が、人生を進歩向上させていくのです。

 

心に消極的な暗い思考をさせてはいけません。

そして、その消極的な思考で心を汚してしまってはいけません。

心身統一法を実践して、積極的な精神で心を照らし、内省検討や観念要素の更改で心を洗っていきましょう。

34.神経の安定化

「晴れて良し曇りても良し富士の山、元の姿は変らざりけり」

山岡鉄舟

 

少し物音がしただけでビクッとしたり、嫌なことがあるとすぐに落ち込んでしまうのは、神経が過敏になっている証拠です。

人生は山あり谷ありで、いいこともあれば悪いこともあります。

運命が悪いほうへ向かっているとき、神経が過敏な状態だと、それを修正することができません。

そのような状態では、人生の荒波を乗り越えていけないのです。

 

病や困難に直面したとき、心をコントロールせずに消極的な思考に陥ってしまうと、神経はたちまち過敏になっていきます。

本能心が、制御できなくなった列車のように暴走してしまうのです。

そのようなときは、客観的に自分の心身を観察して、本能心を制御しなくてはなりません。

本能心をコントロールできれば、痛みや苦しみに心を占領されずにすみます。

織田信長恵林寺を焼き討ちにした時に焼死した、快川紹喜が残したとされる「心頭滅却すれば火もまた涼し」という辞世の句があります。

心から離れてしまえば、痛みや苦しみはただの信号となるので、それに煩わされることはないのです。

 

痛みは本来、体の異常を伝えるための信号であって、生きるために有益なものです。

しかし、それを消極的に受けとってしまうと、痛みは増していき、苦しみにとらわれてしまいます。
人間は耐えられないほどの痛みを感じると、副交感神経の一つである迷走神経が過剰に反応し、血圧低下を起こすので脳血流量が足りなくなり、気を失ってしまいます。

これを迷走神経反射といいます。

だから、人間に耐えられない痛みが続くわけはないのです。

ドラマなどで、犯人が被害者の後頭部を鈍器などで殴り、被害者が気を失うシーンを見たことがありますよね。

耐えられないほどの痛みが続くのなら、それは本能心が暴走して、一の痛みを百にしてしまっているのです。

 

人間が心に感じる精神的なショックは、危険を回避するためや、戦闘の準備に入るために、かつては必要なものでした。

しかし、それを消極的にとらえてしまうと、恐怖や不安の感情となって心に負担を与えてしまいます。

肉体の時と同様に、人間は耐えられないほどの精神的なショックを受けると、迷走神経が過剰に反応して、気を失ってしまいます。

あまりに衝撃的な光景を目の当たりすれば、物理的な衝撃がなくても、人間は気を失ってしまうのです。

 

体で感じたものを脳に伝えたり、心で感じたものを体に反映させているのは神経になります。

神経は、心と体を繋ぐ役割を果たしているので、体の痛みの情報は、神経を通じて脳に伝えられます。

体の痛みをただの信号だと理解できても、痛みを感じることには変わりがありません。

だから、まずは神経を安定させることで、痛みを軽減させて、それにとらわれないことが重要になります。

また、痛みにしても、精神的なショックにしても、脳が過剰に興奮することで、迷走神経反射が起こり、体に異常が起きます。

神経を安定させれば、十の衝撃を一に抑えることができ、その異常を小さくすることができるのです。

 

神経を安定させるには、中村天風の教えるクンバハカが効果的です。
クンバハカとは最も神聖なる状態という意味で、これによって神経の動揺を抑えることができます。

自動車事故で一番多いのは追突事故だそうですが、乗車しているときに、後ろから車に追突されると、首への衝撃で、むちうちになったり、ひどいと死亡してしまうことがあります。

しかしヘッドレストがあれば、頭を支えてくれるので、首への衝撃を受け流してくれます。

クンバハカは神経において、自動車のヘッドレストのような役割をしてくれるのです。


方法は簡単で、まずは肛門を締めます。

そうすると、腰のあたりにある神経の集まりが安定します。

江戸時代にある船が沈没した時に、白翁という僧侶だけが唯一生き残りました。

「もし何かあったら、とりあえず肛門を締めておけ」と師である白隠禅師から教えられたことを守ったことで、死を免れたそうです。

肛門を締めているだけでも、心身への衝撃は緩和されます。


次に、へその下の下腹部にある丹田に力を充実させます。

丹田に力を充実させれば、重心が安定するので、衝撃を腹で受け止めることができます。

下腹部をへこませるのではなく、膨らませるイメージです。

そうすることで、精神の動揺を抑えることができます。

腹には、第二の脳といわれる腸があります。

腸は密接に脳と関わっていて、精神疾患を持っている人は、腸に何らかの問題を抱えている人が多いそうです。

丹田を充実させることは、物理的な衝撃だけでなく、精神的なショックにも効果があります。


最後に、肩をしっかり下に落とします。

そうすれば、横隔膜の位置が下がるので、肺が膨らむための広いスペースが確保されます。

腹式呼吸をすれば、さらに横隔膜が下がるので、たくさんの空気を吸うことができます。

酸素は人間のエネルギーを生み出すために必要で、酸素がなくなれば、心臓も脳も停止してしまいます。

呼吸はそれだけ人間にとって大事なのです。


精神が動揺していると肩が上がり、呼吸が浅くなってしまいます。

すると神経はさらに乱れるので、悪循環に陥ってしまいます。

動揺しているときこそ、肩を上擦らせないようにしましょう。

 

おさらいすると、肛門をしめ、丹田を充実させ、肩を下げて横隔膜を下げます。

そして、体の重心を丹田に持っていきます。
空の水瓶は、押されるとすぐに倒れてしまいますが、水で満たされた水瓶はそう簡単には倒れません。

水瓶とは、水を入れておく大きめの陶器のことです。

クンバハカのイメージは、水瓶が水で満たされた状態です。

クンバハカができていれば、体の重心が下がるので、物理的な衝撃にも強くなり、押されても簡単には体勢が崩れなくなります。

なるべく長い時間クンバハカをするようにして、神経を安定させましょう。


神経を安定させるには、呼吸法も重要です。

プラナーヤマという呼吸法は、大気から効率良くエネルギーを受け取ることができるので、神経を安定させるだけでなく、活力も早く回復します。

その方法は、まずはゆっくりと肺の中の息を、鼻から吐き尽くします。

そして、その後一瞬息をとめて、腹式呼吸でゆっくりと口から息を吸い込みます。

汚れた空気を吐き出し、その後に新鮮なエネルギーに満ちた空気を吸い込むイメージで行いましょう。

小学校などの体育の授業で習った呼吸と逆ですが、息を吐くときは鼻から吐いて、吸うときは口から吸います。

口から息を吸うことで、細く長い息になります。

そして、鼻から息を吐くことで、頭部を空気が循環して、脳の温度を下げてくれます。

脳は機械と同じで、熱を持ちすぎると良くないので、呼吸で冷やしてやらないといけません。

鼻から吐いて口から吸うことは、呼吸法をしていると意識することにも繋がります。

呼吸の合間に一瞬息を止めるときに、肛門を締めて、クンバハカをするようにしましょう。


時間があるときに、立ってでも座ってでもいいので、フラフープを回すように腰を右回りに回転させましょう。

これを養動法といい、神経の興奮を抑え、精神を安定させます。

右回転なのは、体の臓器の位置関係を考えてのことで、内臓の働きを高め、消化吸収と排泄を助ける作用もあります。

神経は、姿勢との関わりが強く、悪い姿勢は神経を乱れされる原因になります。

言い方を変えれば、姿勢が悪いと、知らぬ間に心が消極的になってしまうのです。

養動法を行うと体幹が鍛えられるので、姿勢を改善することにも繋がります。

 

クンバハカ、プラナーヤマ、養動法を日常に取り入れて、なるべく気づいたときに行うようにしましょう。

そうすれば衝撃を受けたときに、神経反射が調節されるので、心身にでる悪影響が少なくなります。

肛門をずっと締め続けるのは大変ですが、呼吸の合間だけなら簡単にできます。

先ほどの内省検討とクンバハカを基本にして、暗示の分析、プラナーヤマと発展させていくようにしましょう。

なのでまずは、内省検討とクンバハカを常に行うことが重要です。

コマーシャルなどでよく流れるリパブリック讃歌を替え歌にして、「内省検討、クンバハカ、暗示の分析、交人態度、苦労厳禁、正義の実行、プラーナヤマ、養動法」と覚えるのがお薦めです。

 

クンバハカは、いざというときに実行でないと意味がありません。

日常で実行できていないものは、いざというとき咄嗟に実行できるはずがないのです。

だから、まずは日常でクンバハカを少しでも長い時間行うようにしましょう。

交通事故などの予期せぬことが起きたときに、咄嗟にクンバハカが実行できるように、クンバハカを習慣化しましょう。

 

おすすめ書籍

中村天風「心に成功の炎を」

37.潜在意識の積極化

「筆を洗ったまっ黒なコップの水も、水道の蛇口のところに置いて、ポタリポタリと水を落とせば、一晩のうちにきれいになってしまう」
中村天風

 

私たちが普段の生活の中で認識している顕在意識は、意識全体から考えると氷山の一角でしかありません。

顕在意識の下には、人間が自覚していない潜在意識が広がっています。

すぐに消極的な思考をしたり、イライラしたりするのは、潜在意識の奥底に不要な自我が残っているからです。

それによって、恐怖や欲求不満などが生まれ、それが雑念や妄想になって意識の上にあらわれてきます。

顕在意識は自覚できるので、消去的な思考に気づくのは容易ですが、潜在意識は自覚できないので、そう簡単に改めることができません。

今回は、潜在意識に残った不要な自我を消していく方法を紹介します。

 

顕在意識と潜在意識はもともと一つの意識なので、もちろん繋がっています。

だから、顕在意識を積極的に保てば、それが少しずつ潜在意識に伝わるので、潜在意識は積極的になっていきます。

なので普段から、「怒らず、恐れず、悲しまず」と「正直、親切、愉快」を心がけて、積極的でいるようにしましょう。

また潜在意識は、自分の発する言葉に少しずつ同化していきます。

だから、日頃から積極的な言葉を口はして、消極的な言葉を口にしないように気をつけましょう。

バケツいっぱいの泥水でも、水道水を注ぎ続ければ、少しずつ綺麗になっていきます。

同じように、消極的な観念で濁った潜在意識も、積極的な観念を注ぎ続ければ、いずれは積極的になるのです。

潜在意識が掃除されるのには時間がかかるので、根気強く、少しずつ不要な自我を取り除いていきましょう。

 

受け入れることができないほどのショックな出来事が起こると、通常の記憶にはならず、潜在意識に強く残ってしまうことがあります。

それをトラウマといいます。

トラウマは普段は潜在意識の中に隠れていますが、ふとしたきっかけで突然顔を出します。

トラウマを克服するためには、まずは自分にトラウマがあることを認めて、それを少しずつ受け入れて、通常の記憶になるのを待つしかありません。

苦手教科を見て見ぬふりを続けていれば、苦手意識が強くなっていくだけです。

トラウマも見て見ぬふりを続けていれば、余計に心の奥底に根を張っていきます。

だから、トラウマの存在を認め、心を積極的に保つことで、少しずつ受け入れていきましょう。

トラウマも潜在意識に残る不要な自我の一つなのです。

 

幼い頃は、物理的な身の危険を感じない限り、恐怖を感じません。

しかし歳をとると、人を待たせたるだけで焦りを感じるようになります。

怒りも焦りも不安も、本を正せばすべて恐怖から生まれます。

自分の身を守るために恐怖を感じ、それが他の感情に変わっていったのです。

人を待たせているから焦っても、いいことはありません。

焦らずに冷静になったほうが、結局人を待たせずにすみます。

生まれたての赤ん坊のような、不要な自我のない潜在意識を目指しましょう。

幼い頃に感じた恐怖は、潜在意識に強く残ります。

なので、親は子どもを怒るのはいいですが、強い恐怖を与えるのは避けるべきです。

 

人間は暗示に同化していくので、それを利用して、潜在意識を掃除する方法があります。

自分に暗示をかけて良い方へ誘導していく、自己暗示誘導法です。

少年漫画の主人公のように、「おれは○○だ」と心の中で宣言を続ければ、それを現実化するように、知らぬ間に行動が変わっていきます。

その過程で、潜在意識も少しずつ積極的になり、その宣言を紛れもない真実だと思えるようになったとき、それは信念となっています。

無理にでも何かのふりをしていたら、脳は勘違いして少しずつそれに近づいていくのです。
言葉やイメージは、潜在意識を変化させていく力があります。

 

人間の想像力はすさまじいものです。

私たちの周りにある物は、ほぼ人間の想像力から生まれた物です。

もちろん植物などの自然は違いますが、それ以外は人間の頭で想像したものが、具現化されています。

頭の中ではっきりと映像にして想像できれば、それは現実世界にあらわれてきます。

想像した映像が紛れもない真実だと思えれば、宇宙の創造の力が働きだし、実際にその通りに現実が動いていくのです。

もちろん、物理的に不可能なものは現実化しません。

それは想像ではなく妄想です。

 

心とは気の動きのことで、宇宙も心を働かせてこの世界を創ったのです。

この宇宙の創造する力を働かせることができるから、人間は万物の霊長といわれるのです。

 

物理的に可能なものならば、人間の想像は具現化します。

不思議に思うかもしれませんが、それが宇宙法則なのです。

それは自分のことでも同じなので、自分の将来の姿は理想的なものをはっきりと思い描くようにしましょう。

注意すべきことは、想像はプラスにもマイナスにも働くということです。

宇宙法則は情けをかけてくれません。

消極的な想像を続ければ、現実はそのようになっていきます。

 

創造の力を働かせるためには、気を集中して使わなければなりません。

人間は希望を思い浮かべるときは、雑念が生じやすいですが、ショックな出来事があって、消極的な思考をするときは気を集中して使います。

だから、悪い予感が的中し、負の連鎖が起こってしまうのです。

しかし、大きな事柄が現実化するには時間がかかります。

だから、消極的な想像が現実化する前に、積極的な想像に振り替えるようにしましょう。

すぐに現実化しないことは、実はありがたいことなのです。

本当に叶えたい理想だけを、気を集中して持ち続けるようにしましょう。

 

寝る前に、鏡に映った自分に向かって「お前は○○になる」と命令して、自己暗示をかけるのも効果的です。

眠りに入るときは、半覚醒状態の変性意識になります。

変性意識になると、顕在意識と潜在意識の境が曖昧になって、お互いを行き来しやすくなります。

だから、寝る前に消極的な思考をすることは絶対にやめましょう。

寝るときくらいは、真珠を薄い絹で包むような気持ちで心を大切に扱って、無理にでも尊い気持ちになりましょう。

一日中そんな気持ちでいることは大変ですが、寝る前だけなら可能なはずです。

寝るときに消極的な思考をすることが、潜在意識を最も汚すことになります。

 

ちなみに、瞑想で目指す無念無想の境地も変性意識になります。

安定した精神状態で深い瞑想に入ると、変性意識を通して、潜在意識が掃除されていきます。

 

睡眠は、生物が脳を休ませて、体の疲れを取るための大事な時間です。

顕在意識が汚れたままで眠りにつけば、その汚れが潜在意識の中に入っていってしまいます。

それでは霊性心が十分に働かないので、自己治癒力が発揮されず、疲れが残ってしまうのです。

毎日のことなので、忘れてしまいがちですが、睡眠は神聖な時間です。

今日も安心して布団で眠れることに、感謝を持って眠りにつきましょう。

 

朝起きたら、自分に「おれは〇〇になる」という断定をしましょう。

また寝る前には、鏡の中の自分に「お前は〇〇になる」と命令しましょう。

そして布団に入ったら、眠りにつくまで積極的な心持ちでいましょう。

その三つを習慣にして、消極的な感情を生む観念要素を更改していきましょう。

自分にかける言葉は何でもいいので、「おれは信念強いぞ」とか「お前は楽しく生きろ」とか、自己暗示によって現実化していきましょう。

 

霊魂は宇宙霊と繋がっていて、顕在意識は潜在意識と繋がっています。

だから、潜在意識は宇宙霊の一部と重なっています。

顕在意識は霊魂のものですが、潜在意識は霊魂と宇宙霊にまたがって存在しているのです。

霊性心を発揮すると、潜在意識が活発になるので、宇宙霊の力が霊魂に入ってきます。

すると、自分の中に眠っている普段は使っていない力が発揮されます。

それが、火事場の馬鹿力や潜勢力と呼ばれるものです。

なるべく普段から霊性心を発揮し、潜在意識を活用して生きられるようになりましょう。

36.ヴィッパッサナー瞑想

「妄想とは、現実をありのままには認識しないで、自分の好みで、主観で認識することです。頭の中で概念だけが回転する状態です」

アルボムッレ・スマナサーラ

 

この世界の万物は粒子でできていて、その粒子は波のように動き続けています。

だからこの世界は、常に変化し続けていて、四季のような周期を持って流れています。

四季とはエネルギーの循環のサイクルのことであり、エネルギーの上がり下がりの繰り返しを示します。

なので、地球上のものはすべて波のように曲線を描いて、変化していきます。

 

意識の上に雑念や妄想がなければ、ありのままを感じることができます。

しかし、雑念や妄想があると、人間はそれに何かの意味を加えてしまいます。

音はただの空気の振動であり、視界に映るものは、物体が反射した光の色です。

どちらも実際は、小さな粒子の動きなのです。

この世界は、目に見えない粒子で満ちています。


光は、粒子と波どちらの性質も持っています。

人間の目が知覚できる光の波長は決まっていて、光の波長が短すぎたり長すぎると、見えなくなります。

赤外線と紫外線が見えないのは、そのためです。
同じように音にも周波数があり、人間が聞こえる音の周波数は決まっています。

何も聞こえないところでも空気は振動しているし、年をとって耳の機能が落ちてくると、高い周波数の音が聞こえなくなります。

 

ヴィッパッサナー瞑想という、いつでも簡単に行うことができる瞑想法を紹介します。

ヴィッパッサナーとは「明確に観察する」という意味になります。

まず、感じたものを感情を混じえず、ありのままに頭の中で言葉にしていきます。

自分を客観的に観察して、実況中継をしていくのです。

例えば、歩いているときは「右足」「左足」と動いているほうの足を言葉にしていきます。 

坐禅をするときは、呼吸に意識を集中して、お腹の動きを「膨らむ」「縮む」と言葉にしていきます。

ヴィッパッサナー瞑想をしているときに、何かの音が聞こえたら「音」と言葉にし、雑念がわいてきたら「雑念」と言葉にします。

音が聞こえたときに「風の音」などと具体的に言わないようにしましょう。

それは車の通り過ぎる音かもしれません。

また、音が聞こえてくる方向を間違えることもあります。

人の感覚は絶対ではないので、判断を間違うかもしれません。

ありのままを観察するのがヴィッパッサナー瞑想です。

坐禅をしていて足が痺れたら、「痛み」と言葉にしましょう。

目をつむっているときに、何かが見えたら「色」や「形」と言葉にしましょう。

ストップウォッチを使って、瞑想に集中できる時間を測ったり、数字を数えることに集中して、いくつまで数えられるかを試してみましょう。

そして集中力を鍛えて、その記録を少しずつ延ばしていきましょう、


人間は自覚はなくても、常に何かを考えています。

それも、大部分はどうでもいいことばかりです。

雑念にとらわれている心を、現実に引き戻すのがこの瞑想の役割です。

ヴィッパッサナー瞑想をして、雑念がどのように生じてくるのか、客観的に観察してみましょう。


ヴィッパッサナー瞑想の役割を考えるために、人間の心の状態を三つに分けてみます。

一つ目は、本能心と理性心が働いて、雑念や妄想が浮かんでいる状態です。

このとき意識の一部は、空想の世界に飛んでしまっています。

二つ目は、雑念があることに気づいて、意識が現実に戻るときです。

三つ目は、雑念が消えて、意識がはっきりと現実を認識している状態です。

普段からヴィッパッサナー瞑想をしていると、二つ目の「気づき」が習慣化されるので、雑念にとらわれていることに気づけるようになります。

この気づきのことをサティと呼びます。

 

仏陀は、苦しみの原因は自我にあると考えました。

自我は、人間が何かを感じたとき、それを判断することによって芽生え、それを積み重ねることによって形成されます。

しかし、人間の判断がいつも正しいとは限りません。

人間が正確な判断を続けていくことは不可能です。

だから、どうしても自我と現実の間にギャップが生まれてきます。
そしてそのギャップから、妄想や雑念を生まれ、苦しみが生じるのです。

 

今感じているものを何の判断もせずに、そのまま言葉にすれば、自我が入ってくる余地はありません。

感じたことに対して何も判断をしなければ、自我から妄想や雑念が生じることはないのです。


人間の判断は不確かなものなので、それに振り回されてはいけません。

例えば、少し先でガラの悪い人が立ち止まったとします。

そして、その人がこちらを睨みつけていると感じて、恐怖を感じたとします。

でも本当は、その人はポケットの中の鍵を探すために立ち止まっていただけだったのです。

するとその恐怖は、余計な気苦労ということになります。

その人がこちらを睨みつけていようと、探し物をしていようと、「少し先で物体が止まった」それだけのことなのです。

高級車が走っていると、他の車のときより身構えたりしませんか。

事実は、どんな車もただの物体です。

頭の中で、無意識のうちに物体に意味を与えているのです。

余計な判断はせず、ありのままを実況中継していれば、余計な気苦労はせずに済みます。

 

雑念は雑念を呼びます。

例えば、自宅の外から別の家のチャイムの音が聞こえてきたことで、明日荷物が配達されることを思い出します。

そして、明日その配達時間に間に合わせるために、用事を早めに切り上げることを思い出します。

そして今度は、その用事の内容について、あれこれ考えだします。

ここではチャイムの音が、それとはまったく関係のない用事の内容にまで飛躍しています。

だから、何の判断もしない「音」で止めておけば、雑念が生じるのを防ぐことができます。

 

無意識的のうちに何かを考えているのが雑念であり、それは心を疲れさせます。

ヴィッパッサナー瞑想は、その雑念に気づく力を鍛えてくれるのです。

今この瞬間に感じているものを言葉にしていき、意識を現実に集中させ、何事も意識を集中して考えるようにしましょう。

 

ヴィッパッサナー瞑想を続けていると、雑念が消えていき、精神が集中していきます。

すると、本能心や理性心が消えて、霊性心が発揮されるので、心が回復していきます。

心は絶えず働き続けているので、たまには休めてやらないと、働き通しでは疲れてしまいます。

ヴィッパッサナー瞑想を習慣にして、気づきの力を高めていきましょう。

 

自我は、人間が生きているうちに徐々に形成されていきますが、自己は生まれたときから何も変わっていません。

自己とは、霊性心のことであり、本当の自分のことです。

時折、自分の常識や価値観を取っ払って、本当の自分に還るようにしましょう。

 

おすすめ書籍

アルボムッレ・スマナサーラヴィパッサナー瞑想 図解実践 自分を変える気づきの瞑想法」

35.安定打坐法

「実際の感情、情念を心の中に入れないで、純真な気持ちになるのが無念無想なんです」

中村天風

 

お坊さんが坐禅を組んで瞑想をするのは、無念無想である三昧の境地に達するためです。

瞑想は想いを瞑ると書くように、雑念を消すために行います。

本能心と理性心から生まれる雑念を消し去ることができれば、自ずと霊性心があらわれます。

霊性心は宇宙の心の一部であり、この世界の造物主の心の一部です。

だから、霊性心を発揮できれば、造物主と人が結びつく神人冥合が行われます。

すると、心の中にぐんぐん宇宙のエネルギーが入り込んできて、普段は使うことのできない潜勢力が発揮されます。

そしてこの状態こそが、人間の本来あるべき姿なのです。

心に雑念があると、脳が働き続けるので、どんどん疲れていきます。

それは、誰もいない部屋でエアコンをガンガンかけるようなもので、エネルギーの浪費をしていることになります。

逆に霊性心が発揮されると、エネルギーが充電されていくのです。

 

禅の修行で目指している状態は、他のことに気を取られず、ひたすら一つのことに気を集中できるようになる一意専心です。

口で言うのは簡単ですが、実際に行うのは大変です。

ご飯を食べるときも、なんとなしに仕事のことなど、別のことを考えたりしていませんか。

ご飯を食べるときは、ご飯を食べることだけに精神を集中する。

寝るときは、寝ること以外考えない。

それが一意専心です。

「眠れない」と思った時点で、それは雑念が発生しているのです。

人間は少しでも油断すると、何か別のことを考えてしまいます。

禅のお坊さんは、常に一意専心の状態でいられるように修行しているのです。

気を集中して打ち込むと、自分の能力が最大限に発揮されるので、何をするにしても効率が上がります。

逆に雑念を浮かべていると、力が発揮できないので効率が落ちます。

 

雑念を浮かべることは、百害あって一利なしです。

エネルギーが浪費されて疲れが溜まっていくし、消極的な思考や欲求不満などが暴走する原因になります。

自分が考えようと思ったこと以外は考えないように努めて、雑念が浮かんだらすぐに消すようにしましょう。

 

中村天風の考案した雑念を消して心をリセットするブザー音を使った瞑想、安定打坐法を紹介します。

簡単にできるので、朝起きた時や寝る前などに行い、それを習慣化しましょう。
まず静かな場所で、楽な姿勢で座り、目をつむります。

そして、自動的に音の切れるブザー音を十数秒鳴らします。

アップルストアに天風会の安定打坐法というアプリがあるので、アイフォンを使っているならおすすめです。

ブザー音が鳴り始めると、意識が自然とブザー音に集中します。

そして、ふいにブザー音が消えると、意識は行き場を失って、心の中が空になります。

このときに体験するのが、無念無想である三昧の境地です。

このときの心持ちを覚えて、日常の中で雑念が浮かんできたら、できるだけその心持ちを思い出しましょう。

それを続けていれば、ブザー音がなくても無念無想の境地に入ることができるようになります。
本来なら、無念無想になるためには、何時間も坐禅して、本能心と理性心が消えるのを待たなくてはなりませんでした。

しかし安定打座法では、ブザー音ひとつで簡単に無念無想になることができます。

 

ここで重要なのは、継続することです。

この方法では、簡単に無念無想になれるので、その有り難みを忘れてしまいがちです。

人は苦労して手に入れたものは、手放さないように努力します。

しかし、簡単に手に入ったものは、簡単に手放してしまうので、継続するように気をつけましょう。

 

無念無想の状態で生きれば、意識を使わないですむので、疲れにくくなります。

さらに、本能心と理性心の板挟みになって、煩悶することがなくなります。
もちろん怒りや悲しみを、感じることはありますが、無念無想になって、心をリセットできれば、執着することがなくなります。
安定打座法を続け、無念無想になる時間を少しずつ増やしていけば、ブザー音がなくても無念無想の境地に入ることができるようになります。

消極的な気持ちにとらわれたら、フッと無念無想の境地に入り、心機転換できるように安定打座法を続けていきましょう。

 

おすすめ書籍

中村天風「盛大な人生」