「心の持ち方一つが結局人生の運命を決定するんだ」
人間は生まれるときに、その材料を集めてきてつくられるわけではなく、もとからこの世界に存在するものでつくられます。
そう考えると、人間はエネルギーを再利用することで、生死を繰り返していることがわかります。
人間がどのようにつくられるのか考えてみましょう。
まず、男性の精巣から射精された無数の精子のうちの一つが、女性の卵巣から排卵された卵に入り込み受精が起こります。
すると初期発生が起こり、精子と卵の核が融合して、受精卵は細胞分裂を始めます。
受精卵は、分裂を繰り返しながら、卵管から子宮のほうへ移動し、子宮内膜に着床すると、妊娠が成立します。
人間が生きるためには酸素が必要なのですが、心臓が血液を全身に巡らせることで、酸素が全身に運ばれます。
数分間呼吸ができなければ、人間は死んでしまうのです。
しかし、人間はその心臓よりも先に、脳や延髄のもととなる神経管が形成されます。
生きるために必要な心臓よりも、心が活動するために必要な脳が先につくられるのです、
人間にとって、本質に近いのは心だということがわかります。
父の気が精子を通して母の卵に伝えられ、二人の気が混ざり合うことで、人の心は活動を始めるのです。
心とは霊魂である気の動きのことをあらわし、その気が固定されることで体ができます。
手相は性格をあらわすといいますが、気が固定されることによって相がつくられていくのです。
だから、根本にあるのは心であり、その心が働くことで体が保たれます。
このことから、自分をつくり変えるなら、まずは心をつくり変えなければならないとわかります。
枝葉の問題を解決しても、根本を変えないとまた同じ問題が起こるからです。
人間を植物に例えるなら、根が霊魂であり、幹が心、枝葉が体に当たります。
人間の死とは、心がなくなることを指し、心がなくなることで、体は形を保てなくなります。
脳死状態は、本能心や理性心は消えていますが、植物心や物質心があるので、体が形を保っていられるのです。
現代医療は、体の異常を治療することは得意ですが、心の問題を解決することは苦手です。
しかし、本当ならまずは心の問題を解決すべきなのです。
江戸時代の儒学者である貝原益軒は「養生訓」にて、「医は仁術なり、仁愛の心を本とし、人を救うを以て志とすべし。わが身の利養を専らに志すべからず」と書いています。
これは、「医術とは思いやりと慈愛を持って人を救うことを目的にするべきであり、我が身の利益を目的にしてはなりません」という意味です。
しかし現代医療では、まず解決すべき心の問題が置き去りにされています。
医者は病院が必要のない世の中をつくることが仕事のはずですが、日本中どこに行っても病院が目に入ります。
体だけを診て、その症状を改善する薬を処方し、その原因となった心には関知しない。
それでは、病が減っていくわけがないのです。
自分を幸福と思えるかどうかは、心がどう思うかであって、そこに客観的な尺度は存在しません。
金持ちでも不幸な人はいるし、貧乏でも幸福な人はいます。
幸福な人生を送れるかどうかは、結局は心の置きどころ次第なのです。
五体満足でも不幸な人はいるし、障害を持っていても幸福な人はいます。
自分を幸福にできるのは自分だけであり、他人は自分を不幸にも幸福にもできません。
周りの人も関係があると思うのは、自分の心が周りの人を気にしているからなのです。
人間は、一人ひとり霊魂を持っています。
そして、霊魂は宇宙霊の一部であり、宇宙霊はこの世界の創造主です。
つまり、人間は一人ひとり神を持っていることになります。
そして、自分の神を守ることができるのは、自分だけです。
他人の神に関わることはできないし、誰かが自分の神に触れることはありません。
だから、まずは一人ひとりが、自分の神を大切にすることが重要です。
他人のことは、後回しでいいのです。
他人のために何かをして、自分が嫌な思いをするのは、本末転倒であり、自分の神への冒頭になります。
そんなことになれば、自己中心的な人間が増えると心配になるかもしれませんが、神を大切にする気持ちがあれば、自分の神を優先するにしても、他人の神を粗雑に扱ったりはしません。
だから、まずは自分の神をしっかり守りましょう。
人間の欲は底が知れず、物質的な満足を求めていてもキリがありません。
一つ手に入れたら、二つ欲しくなり、三つ四つと欲しくなるのです。
生活が裕福になっても、すぐにその生活に慣れてしまい、さらなる裕福な暮らしを求め始めます。
欲に縛られて生きる人は、本能心に振り回される奴隷のようになってしまい、いつまでも欲求を追い求めます。
しかし、いつまでも欲求は満たされることがないので、欲求不満は募るばかりなのです。
まずは自分の置かれている現状に満足して、感謝することが重要です。
不満を口にすれば、不幸になるのは当たり前です。
なぜなら、自分で消極的なものに力を注ぎ、自分を悪いほうへ誘導しているからです。
中国の古典である「老子」には「足るを知れば辱しめられず、止まるを知れば殆うからず。以って長久なるべし」とあります。
「満足を知れば屈辱とは無縁になり、ほどほどを心得ていれば危険もありません。このようにして安らかに暮らしましょう」という意味なのですが、現代人はどうもこれが苦手のようです。
すぐに不満を口にしたり、他人を羨んで、ただ生きていることが、どれだけ幸福なことか、すぐに忘れてしまうのです。
生きていることを当然のように思って、「もっといい暮らしがしたい」と自ら不満をつくりだし、不幸になっていくのです。
たった今、こうして生きていることは特別なことだと胸に留めておきましょう。
二十歳までしか生きることができないと言われた人が、三十歳まで生きることができたら、三十年も生きられたと感謝するかもしれません。
しかし、九十歳まで生きるつもりだった人が、三十歳で死んでしまったら、落胆してしまうでしょう。
それなら、幼い頃に二十歳までしか生きることができないと言われた人のほうが、幸せな人生になるかもしれません。
同じ三十年の人生でも、心一つの置きどころで大きな差が生まれるのです。
今がどれほど困難な状況でも、生きていることは特別なことです。
今日を大切に生きていきましょう。
今日という日は、残り少ない人生の最初の一日なのです。
人生はあっという間に過ぎていきます。
悩んでいる時間はありません。
だから、困難に直面したら、宇宙が心の持ち方に問題があると教えてくれていると思いましょう。
それをきっかけに心を入れ替えていければ、ピンチはチャンスに変わります。
「もうダメだ」と思うより、「うまくいく」と思って行動したほうが、結果は良くなります。
そして、それに気づけるか、気づけないかで大きく人生は変わっていくのです。
真理は案外こういうところにあります。
仕事をするときも、無職の気分になれば、働けることは幸せだと思えるはずです。
食事をするときも、食べ物がない状況を思い浮かべれば、食事をとれることは幸せだと思えるはずです。
夜寝るときも、寒い夜空の下で野宿することを想像すれば、布団で眠ることは幸せだと思えるはずです。
何でも、低い地点から現状をみて、感謝できるようになりましょう。
心には、思い描いていることを現実化する力があります。
だから、心は積極的なところに置くようにしましょう。
ナポレオンのように「吾輩の辞書に、不可能の文字はない」と思って生きていきましょう。
すべては心一つの置きどころなのです。