「宗教と道徳というものを、截然と何か二物にごとく分ける考え方が普及しました。両者は一体のものです。ただ表現、現れ方が違うだけです」
最近は新興宗教団体の詐欺事件をニュースで見ることも多く、宗教というと怪しくて胡散臭いイメージを持たれるかもしれません。
しかし本来、宗教とは大本の教えという意味であり、道徳とコインの表裏のような関係でした。
宗教も道徳も、自分で自分を正し、本当の自分を確立するための実践法であり、宗教は尊敬を主としていて、道徳は反省を主としているだけの違いにすぎません。
どちらも穢れのない清らかな生活を望み、理想を追い求めることから生まれています。
そうなるためには尊敬と謙虚の心が必要で、尊敬の心が宗教を、謙虚な心が道徳を生みました。
宗教が詐欺や金儲けに利用されやすいのは、宗教が目に見えないものを扱っているからで、言葉巧みに嘘を信じさせることができるからです。
新興宗教がまさにそうで、それは本来の宗教とはまったくの別物であり、信仰宗教について調べてみると、お金が絡んだ事件ばかりがみつかります。
未だに発見されていない偉大な教えが、現代になって発見されたとして、それを世の中に広めようとするなら、それを使って金儲けしようとするのはおかしいと思います。
釈迦も孔子もキリストも自分の教えを広げるため、金儲けなど考えず、質素な暮らしをしながら各地へ旅をしました。
人類の知能が発達して、さまざまな文化がつくられて、長い時間が経ちました。
その間、多くの人々がさまざまな思考をしてきたに違いありません。
それなのに現代になって、長年育んできた根にあたる宗教が、発見されることがでしょうか。
枝葉にあたる科学的な発見は、これからも続いていくでしょう。
しかし、新たな宗教がつくられるとは考えられません。
つまり、東洋の宗教の始まりはこの時期にあたり、その後はこれを発展させていっただけなのです。
だからもし、現代に新たな宗教が見つかったというなら、それは既にある宗教を発展させたものにすぎません。
新しい色は、それまでにあった色を混ぜ合わせることでしか生まれないのです。
宗教はさまざまな地域で生まれ、それぞれが独特の発展を続けてきました。
東洋にはヨガやヒンドゥー教、仏教、儒教、道教などがあり、西洋や中東にはユダヤ教やキリスト教、イスラム教などがあります。
日本には神道があり、武士道も宗教の一つといえるかもしれません。
新渡戸稲造は、西洋のキリスト教に変わるものとして武士道を挙げました。
植物を大きく二つに分けると、力を蓄える根幹と力をあらわしていく枝葉に分かれます。
宗教や道徳は、植物でいうと根幹にあたり、それがしっかりしていないと、植物は大きく成長することができません。
人間も、宗教や道徳で心の土台がしっかり作られていないと、人間性が成長していかないのです。
科学は枝葉の学問であり、根幹である宗教や道徳がしっかりしていないと危ういものになってしまいます。
実際に、核爆弾などの大量破壊兵器が、高度な科学技術によって生み出されてしまいました。
宗教によって教え方は違いますが、よくみてみると、一つの真理を違う方法で説明しているだけです。
同じことを説明するにしても、どの角度からみるかによって、まったく別の説明になってしまいます。
また、宗教を伝えていく言葉はただの記号なので、解釈の仕方によって答えは変わっていきます。
後世の人々が自分たちの解釈で宗教を発展させていくと、その解釈の仕方が原因で、争いにまで発展してしまうことがあります。
一つの宗教が枝分かれして、さまざまな宗派が生まれると、同じ宗教同士であっても、争いが起きてしまうのです。
宗教戦争がまさにそれで、もしキリストが宗教戦争を見たらさぞ悲しむことでしょう。
宗教というと、儀式的なものや形而上のものを想像してしまいますが、本当の宗教は偏りなく生きることや理想を持って生きることなど、人間性の土台となることを教える人間学のようなものなのです。
新興宗教団体のような、犯罪組織やオカルト的なものをイメージしてしまうと、先入観で頭に入って来なくなってしまうので注意しましょう。
おすすめ書籍
安岡正篤「『人間』としての生き方 現代語訳『東洋倫理概論』を読む」