照心洗心録

安岡正篤、中村天風などから学んだことをまとめています。

20. 無と空

「自分だけ大事にしようとすると、怒りや悲しみがわいてくるのです」

釈迦

 

無から宇宙が誕生したように、無とは完全なゼロではなく、有に変わる可能性を秘めています。

この世界に完全なる無というものは存在しません。

無は一見するとゼロのようですが、プラスとマイナスが相殺し合って、ゼロにみえているだけで、そこには必ずエネルギーが存在しています。

 

西遊記に登場する玄奘三蔵が訳したとされる仏教の経典である般若心経の一説に、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」という箇所があります。

色とは目に見えるものを意味します。

訳すと「目に見えるものは空であり、空は目に見えるものに他ならない。目に見えるものと空は別々のものではなく、空とは目に見えるものである」となります。
ここでいう空とは実体のないことで、気やエネルギーのことをあらわします。


化学的にみれば、人間は目に見えない素粒子の集まりですが、目に見える物体として存在しています。

そして、一人の人間が死んだ後も、そのエネルギーは永遠に消えることはなく、新たな生命へと繋がっていきます。

有と無は繋がっていて、その区切りは曖昧なものです。

宇宙のできる前を無というのか、それとも目に見えないことを無というのか、それとも人間が死んで意識がなくなることを無というのか。

このうちのどれもが、エネルギーは存在しています。

こう考えると、無など存在しないという矛盾が生まれてしまいます。

 

仏教では、この世界の中で常にあって変化せず、主体的に存在するものを我といい、そんなものは存在しないと考えることを無我といいます。

また、すべてのものは因縁によって生じたもので、永遠不滅の実体は存在しないということを諸法無我といいます。

そして、すべては空であって、永遠に変化しないものはないということを諸行無常といいます。

すべてのものは、移り変わり、生まれては消えるを繰り返していて、一瞬いえども存在は同じままではいられないのです。

 

喜びの後に憂いがあり、憂いの後に喜びがあるように、すべての物事は必ず相対するものを持っています。

無がなければ有はないし、死がなければ生もありません。

失敗がなければ成功もなく、不幸がなければ幸福もありません。

物事は比較するものがあって、はじめて意味を持ちます。

すべての物事には陰と陽の一面があり、分けることなどできないのです。

 

頭の中を空にすれば、心に宇宙のエネルギーが満たされていきます。

自我を消して無念無想になると、心は自ずと本心に戻っていきます。

多忙な日々に追われて、自分と向き合うことをしなくなると、人は自分の本来の心を見失ってしまいます。

平気で嘘をついて、へこひいきをして、困ってる人を見て見ぬふりをする。

そんな風にはなっていませんか。

嘘をつかず、差別せず、困ってる人がいれば助けてあげる。

それが人間の持つ本来の心です。


現代は娯楽や情報があふれていて、頭の中を空にする時間が無くなってしまいました。

ほんの数分間でも瞑想すれば、心はぐんぐん元気を取り戻していきます。

雑念を決して、本心に戻ることができれば、自分の中に眠っている潜勢力を発揮することができます。

人間の本心とは霊性心のことであり、尊く、清く、正しく、強く、喜びと感謝にあふれたものです。

しかし、理性や本能がそれを覆い隠してしまっています。

赤ん坊は、まだ自我が発達していないので、心の底から無邪気に笑ったり、泣いたりします。

 

今までのことを振り返ってみてください。

いかに自分が本能と理性に支配されてきたかがわかると思います。

怒りや不安、恐怖、後悔、憎しみ、嫉妬などの消去的な感情を心に浮かべ、生活を送っていなかったでしょうか。

それでは、主人であるはずの霊魂が心と体に振り回されることになり、心と体の奴隷のように生きていることになります。

人間の本質は霊魂なので、心や体に主導権を渡してはいけません。

消去的なことを考えていないか、常に確認する習慣をつけて、気づいたらすぐに消しましょう。
日頃から、心を空にする時間を取るようにしましよう。

それは自分と向かい合う時間にもなります。

 

地球を一つの生命体とみれば、自分と他人の区別はありません。

そうなれば、転んだときに手で体を庇うように、当たり前のように他人を助けるはずです。

自分に見返りを求める人はいませんよね。

自分への執着をなくせば、他人を助けても見返りを求めることはなくなり、人を助けた喜びを感じるだけになります。

そうなるのは難しいことですが、すべての人がそうなるよう努力すれば、もっと暮らしやすい社会になると思います、


自分への執着を捨て、無我になることができれば、宇宙が陰陽相対(待)性原理に基づいた最適なバランスを保ってくれます。

そう努めることが、自分を含めた生命全体を救うことに繋がっていくのです。

 

釈迦は苦しみから解脱するステップを、四諦として四つに分けて説明しています。

この世の一切は苦しみであると認識する苦諦。

苦しみの原因は自我にあると気づく集諦。

自我をなくせば、苦しみはなくなると悟る滅諦。

自我をなくすために道を実践していく道諦。

自我というのは、本能と理性から生まれる雑念や妄想のことです。

道諦で実践していく道を八正道といい、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定があります。

正しく物事を見て、正しく考え、正しく語り、正しく行い、正しく生活し、正しく励み、正しく意識を持ち、正しく心を定めることを意味していて、これらを実践していくことが、偏りすぎることなく生きていく中道に繋がっていきます。

 

仏教で一切皆苦というように、人生には苦しみがつきものです。

幸福な人生とは、苦しみのない人生ではなく、苦しみを喜びに変えることができる人生のことをいいます。

幸福な人生といわれて、苦しみのない楽しいだけの人生を思い浮かべることは間違いなのです。

苦しみを喜びに振り替えられるように、心を空にして霊性心を発揮するよう努めましょう。