照心洗心録

安岡正篤、中村天風などから学んだことをまとめています。

22. 意志と至誠

「人間は魂さえ磨いて居ればよい。ほかに何も考えることはいらん。国も人も魂じゃ。魂の無い国、魂の無い人は国でも人でもない」

頭山満

 

人生山あり谷ありで、生きていれば必ず困難に直面します。

そして、逆境に置かれたときにその人の本性があらわれます。

順調なときに平然としていられるのは当たり前ですが、トラブルが起きたときに消極的にならず、落ち着いていられるかどうかは普段どれだけ自分を鍛錬しているかによります。

 

困難に直面したとき、それに負けずに進んでいけるのは意志のおかげです。

意志は霊性心から生まれるので、損得勘定も善悪もありません。

自分が損をするとわかっていても、そうすべきだという直感で体を動かさせるのが意志になります。

「かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」という吉田松陰の歌は、まさに意志について詠まれています。

当時鎖国をしていた日本では、国を出ることは大変重い罪でしたが、吉田松陰は外国から技術を学ぶためにペリーの黒船に乗り込みました。

そして、結局日本に送り返されて牢獄に入れられることになってしまいました。

大変なことになるとわかっていても、行かずにはいられなかったです。

意志は、宇宙の進化と向上の力が、霊魂を通して心にあらわれたものです。

未来に何かをするつもりという、英語のウィルにあたる意思とは異なります。

人間の本心から発せられるもので、幕末の志士がよく用いた志と同じものになります。


童話作家宮沢賢治の「生徒諸君に寄せる」という作品に、「諸君はこの颯爽たる、諸君の未来圏から吹いて来る、透明な清潔な風を感じないのか」という箇所があります。

この「透明な清潔な風を感じる」というのは、霊性心の存在を感じることをあらわしているのではないかと思われます。

透明な風を感じて、自分のすべきことがわかったとき、それは霊魂が、宇宙の積極の風を感じているのです。

 

頭山満はまさに私利私欲のない意志の人でした。

困った人を見かければ、自分の全財産をあげてしまい、間違っていると思えば、警察や法律などの国家権力もお構いなしに行動を起こし、自分が所属している玄洋社民権派と国権派に分かれたときも、たった一人で孤立しようと自分の意志を通そうとしました。

頭山満にとって人数など問題ではなく、正しいかどうかだけが問題だったのです。

「おれは頭数の人間ではない、お前は頭数の人間か」と同志の箱田六輔に詰め寄り、自殺に追い込んでしまったといわれています。

玄洋社の社長だった箱田六輔は、頭山満が一度口にした信念は絶対に曲げないとわかっていたけど、自分が民権運動を共にしている全国の民権結社を裏切るわけにはいかなかったし、このまま玄洋社を分裂倒壊させることはできなかったので自刃を選んだのでしょう。

その後、頭山満は箱田六輔の親族の面倒をしっかりみたそうです。

 

意志を発生させるためには、心を掃除しておかなければなりません。

雑念や煩悩で頭の中が散らかっていると、意志はあらわれてきません。

心の中に霊魂という神が入る場所を空けておかなくてはなりません。

そのための修行が、座禅や瞑想です。

座禅するときに手を組みますが、それは仏の場所を作るためともいわれています。

 

無理に積極的になったとしても、それは長続きしません。

それは相対的な積極性であり、空元気と同じものです。

絶対的な積極性とは、そのような激しいものではなく、穏やかなものです。

例えるなら、絶対的な積極性は澄みきった水面であり、相対的な積極性は燃えさかる炎です。
雨が降ろうが、雪が降ろうが、雷が鳴ろうが、悠々とそびえたつ富士山のように、いつも変わらず構えているのが絶対的な積極性です。

 

自然は、自ずから然ると書きます。

自ずから然るとは、無為であり、嘘がないということです。

それは絶対的で、真実そのものです。
自然から生まれた人類も、本来は嘘がない存在のはずです。

意志は嘘がなく、自然なものです。

日本の神道とは、かんながらの道のことです。

かんながらとは、神の意志のままで人為の加わらない様子を意味します。

 

吉田松陰孟子の言葉である、「誠は天の道なり。誠を思うは人の道なり。至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」を自らの人生で貫き、三十歳という若さで命を落としました。

嘘のない誠実なことを、至誠といいます。

「嘘のない誠実な想いで心が動かされない人はいない、その想いは天に通じる」という言葉を信念にして、幕府の要人の暗殺計画を話し、処刑されてしまったのです。
吉田松陰は処刑される前に、「男子たるもの死すべきところはどこか」という門下生の高杉晋作の手紙を獄中で受け取り、「死して不朽の見込みあればいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあればいつでも生くべし」という返事を残しています。
「死ぬことが世のためになるならば、いつ死んでもいいし、生きて世のためにできることがあるなら死ぬべきではない」と自分の死によって決起に逸ることがないように、門下生たちを諌めたのです。

吉田松蔭は至誠を貫いて、処刑されることになりましたが、その死は門下生達の心を発憤させ、それが明治維新の大きな原動力になりました。


儒学者佐藤一斎の「言志四録」という作品に「聖人死に安ず。賢人死を分とす。常人死を畏る」という箇所があります。

聖人は死を安らかに受け入れ、賢人は死を当然のものとし、凡人は死を恐れるという意味です。
西郷隆盛は自らの死に場所を西南戦争と決め、現代のように技術や物質に傾き始めた明治政府を諌め、西南戦争を国内最後の内乱としました。

明治政府は欧米に追いつこうとして、文明を発展させることばかりにとらわれて、精神面が置き去りになっていました。

西郷隆盛は自らの死をもって、明治政府へ「道理を外れるな」というメッセージを送りました。
「もうここらでよか」と自分の命に執着することなく、命の使いどころを客観的に考えて、実際に自分の命を使ったのです。

積極的に人生を生きて自分の使命を全うし、次の世代に想いを繋いで死んでいくのは、素晴らしいの一言に尽きます。

 

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井川聡「頭山満伝 ただ一人で千万人に抗した男」