「人間は火のついた線香じゃ。それに気がつけば誰でも何時かは発奮する気になるじゃろう。老若誠に一瞬の間じゃ、気を許すな」
人生は一度きりで、かけがえのないものです。
何があろうと、人生が二度繰り返されることはありまさん。
当たり前のことですが、案外それを忘れてしまっています。
それがわかっていれば、後悔がないよう一日一日を大切に生きているはずなのです。
宇宙のエネルギーは永遠に巡っていきますが、命が尽きると、人間の霊魂は散り散りになってしまいます。
人は生きていることを当然のように思って、漠然と日々を送ってしまいます。
しかし実際は、人間はいつ死ぬかわかりません。
明日、交通事故に遭うかもしれないし、事件に巻き込まれてしまうかもしれません。
天災や突然の病で、命を落としてしまうかもしれません。
「何となく人生はずっと続いていく」というような気楽な気持ちで生きていると、いざ死を目の前にしたとき、死の恐怖で目の前が真っ暗になってしまいます。
なので、しっかりとした死生感を持っておくことが大事です。
吉田松陰が処刑前に獄中で、松下村塾の門弟のために残した遺書である「留魂録」の中に、人の一生を四季に例えた箇所があります。
「私が死を目前にしても落ち着いていられるのは、四季の循環について考えていたからです。
つまり、農事で言うと、春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵します。
秋や冬になると、農民たちは一年の労働の収穫を喜んで、酒などを作り、村は歓声にあふれます。
収穫期を迎えて、その年の労働が終わるのを悲しむ人がいるというのを聞いたことがありません。
私の生は三十歳で終わろうとしています。
何も成し遂げずに死ぬのなら、穀物が実をつけなかったことに似ているので、惜しむべきことかもしれません。
だけど、私自身について考えれば、穂を出して実りを迎えた時なので、何を悲しむことがあるでしょう。
人の寿命には定まりがなく、穀物のように決まった四季を経ていくものではありません。
十歳にして死ぬものには、その十歳の中に四季があります。
二十歳には二十歳の四季が、三十歳には三十歳の四季が、五十、百歳にも四季があります。
十年の人生を短いというのは、蝉の命を木の命にしようとするようなものです。
百年の命を長いというのは、椿の命を蝉の命にしようとするようなものです。
それは、いずれも天に与えられた寿命ではありません。
私は三十歳、四季はすでに備わっており、穂を出して実をつけているはずです。
それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかはわかりません。
もし同志諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、 それを受け継いでやろうという人がいるなら、それは蒔かれた種子が絶えずに、 穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるでしょう。
同志諸君よ、このことについてよく考えてください」
このような遺書を尊敬する先生が残したら、門下生は発奮するしかないですよね。
吉田松陰は処刑をされる時も堂々とした態度で、首を打たれる瞬間まで落ち着いていたと、処刑人は証言しています。
自分が死を迎える時、実りのある人生だったと思えるように、一度きりの人生を後悔がないように生きないといけません。
大切なのは人生の長さではなく、中身なのです。
武士はいつ命を落とすかわからなかったため、死を覚悟して生きる必要がありました。
いざという時に動じないためには、日頃から死の準備をしている必要があったのです。
江戸時代中期に武士の心得について書かれた「葉隠」という書物の中に、「武士道というは死ぬことと見つけたり」という一説があります。
死を覚悟した上で臨めば、心は何にもとらわれることがなくなるので、焦ったり恐怖や不安にかられることがなくなります。
そうすれば、何事も無事にやり通すことができます。
死の覚悟ができているから、どんな時も自分を活かすことができるのです。
武士が、死を覚悟して物事に臨む気分は爽快なものだそうです。
死の恐怖を克服するために、刀を天井からぶら下げて寝ていた武士もいたそうです。
そのような日々の心掛けによって、武士は死を身近に置いていたのです。
他にも、死生感について参考になる和歌を紹介します。
「散る桜 残る桜も 散る桜」
これは、人間はいつか必ず死ぬことをあらわしています。
運良く生き残ったとしても、どうせ自分も死ぬことに変わりはないのです。
「切り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ」
「身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ」
人間にとって一番の恐怖は死であり、その恐怖と真剣に取っ組みあっても、いいことはありません。
捨て身になって冷静になった方が、活路を見出すことができます。
現代に生きる私たちには、死の覚悟をすることは難しいですが、死について考えて、心の準備をしておきましょう。
人間は、誰でも死を恐れます。
それは動物である以上、本能があるので当たり前のことです。
誰もが無条件で死を恐れます。
普段、軽々しく死にたいと言っている人も、いざ本当に死ぬとなると、死にたくないと言って態度を一変するものです。
死の恐怖は、生きる気力を奪ってしまいます。
もしも不治の病になって、心が死の恐怖にとらわれてしまうと、残りの人生が台無しになってしまいます。
人生について考えるときに重要なのは、生の方面からではなく、死の方面から考えることです。
生の方面から考えていると、生きていることを当たり前だと思って、有り難みを感じなくなってしまいます。
時間は無限にあると勘違いしてしまうのです。
例えば、健康な状態を百、死をゼロとして考えてみましょう。
百から見れば八十は低いですが、ゼロから見れば百も八十もどちらも高いですよね。
少しの不調で不満を漏らしているかもしれませんが、死の方面から考えればそれは幸せに他ならないのです。
失ったときに、本当の大切さがわかるといいますが、生きることもそうで、死に直面したときに、初めてその有り難みがわかります。
一度でも死に直面した経験があるなら、その時の気持ちを思い出せば、生きることの有り難みを思い出すことができると思います。
「もしあの時死んでいたら」と仮定したら、今生きていることは奇跡そのもののはずです。
生きていることは、それだけで有り難いのです。
「ありがたい」は漢字で「有り難い」と書くように、滅多にないことを意味します。
喜びと感謝を持って、日々を過ごしていきましょう。
死を考えると、死ぬまでのことを想像してしまいますが、死とは死んだ後のことであって、人は死ぬまでは生きています。
当たり前のことですが、人は死んだ後は何もわかりません。
死のことを永眠というように、死は永遠に目の覚めない夢のない眠りと同じなのです。
人は眠っているときに、自分は眠っているとは思いません。
死もそれと同じで、死んだ後には死んでいるとは思わないのです。
生まれる前のことを覚えていないように、死んだ後は何もないのです。
だから死は眠りと同じで、恐れる必要のないものです。
寝ることを怖いとは思いませんよね。
私たちは毎晩寝る時に、死の予行練習をしているといってもいいのです。
だから、もう死ぬことは慣れているはずなのです。
眠りに落ちる瞬間に「今寝た」と思うことがないように、死ぬ瞬間に「今死んだ」と思うことはないのです。
だから、私たちは必ず死にますが、死を体感することは決してないのです。
当たり前のことですが、生きている間は生きているのですから。
恐れても、恐れなくても、必ず死は訪れます。
死ぬことを恐れて、残りの人生を台無しにしてしまうより、生きていることに感謝しましょう。
死の恐怖に打ち勝つのは、とても難しいことです。
だから、自分の人生を死の方面から考えて、「まだ自分は生きてる。有り難い」と死の恐怖を生への感謝で塗り替えてしまいましょう。
生きていることに感謝できない人は、人生を生の方面から考えて、生きていることを当たり前だと思っている人なのです。
水筒の水が残り半分になったとき、もう半分しかないと考えれば消極的になってしまいますが、まだ半分あると思えば積極的でいられます。
消極的になることは、自分から運を手放すようなものなのです。
少しでも水筒の水が残っているなら、喜べるようになりましょう。
同じように、少しでも寿命があるのなら、感謝できるようになりましょう。
死は恐れなければ、怖いものではありません。
当たり前のことですが、恐れるから怖いのです。
だから死ぬ直前まで、生きていることに感謝をし続けて、死を恐れるのはやめましょう。
人は感謝しながら恐れることはできません。
死に直面した経験がある人は、「あの時本当は死んでいた」と考えれば、生きていること自体がラッキーだと思えるはずです。
死に直面した経験がない人も、真剣に自分が死んだ明日を想像すれば、生きていることを有難いと思えるはずです。
生きていることは、掛け替えのない奇跡のようなことです。
家族などの大事な人が残されてしまったところを想像すれば、今生きていることがどんなに幸せなことかわかるはずです。
死んだら何もなくなります。
楽しいと思うことも、つらいと思うこともできなくなります。
死んだら何もないことを考えれば、つらいと思えることも有り難いと思えませんか。
生きていて何かを感じることができるのは、とても幸せなことです。
つらいことも「生きているから感じることができるんだ」と感謝に替えてしまって、人生を積極的に生きていきましょう。
おすすめ書籍
中村天風「信念の奇跡」