照心洗心録

安岡正篤、中村天風などから学んだことをまとめています。

36.ヴィッパッサナー瞑想

「妄想とは、現実をありのままには認識しないで、自分の好みで、主観で認識することです。頭の中で概念だけが回転する状態です」

アルボムッレ・スマナサーラ

 

この世界の万物は粒子でできていて、その粒子は波のように動き続けています。

だからこの世界は、常に変化し続けていて、四季のような周期を持って流れています。

四季とはエネルギーの循環のサイクルのことであり、エネルギーの上がり下がりの繰り返しを示します。

なので、地球上のものはすべて波のように曲線を描いて、変化していきます。

 

意識の上に雑念や妄想がなければ、ありのままを感じることができます。

しかし、雑念や妄想があると、人間はそれに何かの意味を加えてしまいます。

音はただの空気の振動であり、視界に映るものは、物体が反射した光の色です。

どちらも実際は、小さな粒子の動きなのです。

この世界は、目に見えない粒子で満ちています。


光は、粒子と波どちらの性質も持っています。

人間の目が知覚できる光の波長は決まっていて、光の波長が短すぎたり長すぎると、見えなくなります。

赤外線と紫外線が見えないのは、そのためです。
同じように音にも周波数があり、人間が聞こえる音の周波数は決まっています。

何も聞こえないところでも空気は振動しているし、年をとって耳の機能が落ちてくると、高い周波数の音が聞こえなくなります。

 

ヴィッパッサナー瞑想という、いつでも簡単に行うことができる瞑想法を紹介します。

ヴィッパッサナーとは「明確に観察する」という意味になります。

まず、感じたものを感情を混じえず、ありのままに頭の中で言葉にしていきます。

自分を客観的に観察して、実況中継をしていくのです。

例えば、歩いているときは「右足」「左足」と動いているほうの足を言葉にしていきます。 

坐禅をするときは、呼吸に意識を集中して、お腹の動きを「膨らむ」「縮む」と言葉にしていきます。

ヴィッパッサナー瞑想をしているときに、何かの音が聞こえたら「音」と言葉にし、雑念がわいてきたら「雑念」と言葉にします。

音が聞こえたときに「風の音」などと具体的に言わないようにしましょう。

それは車の通り過ぎる音かもしれません。

また、音が聞こえてくる方向を間違えることもあります。

人の感覚は絶対ではないので、判断を間違うかもしれません。

ありのままを観察するのがヴィッパッサナー瞑想です。

坐禅をしていて足が痺れたら、「痛み」と言葉にしましょう。

目をつむっているときに、何かが見えたら「色」や「形」と言葉にしましょう。

ストップウォッチを使って、瞑想に集中できる時間を測ったり、数字を数えることに集中して、いくつまで数えられるかを試してみましょう。

そして集中力を鍛えて、その記録を少しずつ延ばしていきましょう、


人間は自覚はなくても、常に何かを考えています。

それも、大部分はどうでもいいことばかりです。

雑念にとらわれている心を、現実に引き戻すのがこの瞑想の役割です。

ヴィッパッサナー瞑想をして、雑念がどのように生じてくるのか、客観的に観察してみましょう。


ヴィッパッサナー瞑想の役割を考えるために、人間の心の状態を三つに分けてみます。

一つ目は、本能心と理性心が働いて、雑念や妄想が浮かんでいる状態です。

このとき意識の一部は、空想の世界に飛んでしまっています。

二つ目は、雑念があることに気づいて、意識が現実に戻るときです。

三つ目は、雑念が消えて、意識がはっきりと現実を認識している状態です。

普段からヴィッパッサナー瞑想をしていると、二つ目の「気づき」が習慣化されるので、雑念にとらわれていることに気づけるようになります。

この気づきのことをサティと呼びます。

 

仏陀は、苦しみの原因は自我にあると考えました。

自我は、人間が何かを感じたとき、それを判断することによって芽生え、それを積み重ねることによって形成されます。

しかし、人間の判断がいつも正しいとは限りません。

人間が正確な判断を続けていくことは不可能です。

だから、どうしても自我と現実の間にギャップが生まれてきます。
そしてそのギャップから、妄想や雑念を生まれ、苦しみが生じるのです。

 

今感じているものを何の判断もせずに、そのまま言葉にすれば、自我が入ってくる余地はありません。

感じたことに対して何も判断をしなければ、自我から妄想や雑念が生じることはないのです。


人間の判断は不確かなものなので、それに振り回されてはいけません。

例えば、少し先でガラの悪い人が立ち止まったとします。

そして、その人がこちらを睨みつけていると感じて、恐怖を感じたとします。

でも本当は、その人はポケットの中の鍵を探すために立ち止まっていただけだったのです。

するとその恐怖は、余計な気苦労ということになります。

その人がこちらを睨みつけていようと、探し物をしていようと、「少し先で物体が止まった」それだけのことなのです。

高級車が走っていると、他の車のときより身構えたりしませんか。

事実は、どんな車もただの物体です。

頭の中で、無意識のうちに物体に意味を与えているのです。

余計な判断はせず、ありのままを実況中継していれば、余計な気苦労はせずに済みます。

 

雑念は雑念を呼びます。

例えば、自宅の外から別の家のチャイムの音が聞こえてきたことで、明日荷物が配達されることを思い出します。

そして、明日その配達時間に間に合わせるために、用事を早めに切り上げることを思い出します。

そして今度は、その用事の内容について、あれこれ考えだします。

ここではチャイムの音が、それとはまったく関係のない用事の内容にまで飛躍しています。

だから、何の判断もしない「音」で止めておけば、雑念が生じるのを防ぐことができます。

 

無意識的のうちに何かを考えているのが雑念であり、それは心を疲れさせます。

ヴィッパッサナー瞑想は、その雑念に気づく力を鍛えてくれるのです。

今この瞬間に感じているものを言葉にしていき、意識を現実に集中させ、何事も意識を集中して考えるようにしましょう。

 

ヴィッパッサナー瞑想を続けていると、雑念が消えていき、精神が集中していきます。

すると、本能心や理性心が消えて、霊性心が発揮されるので、心が回復していきます。

心は絶えず働き続けているので、たまには休めてやらないと、働き通しでは疲れてしまいます。

ヴィッパッサナー瞑想を習慣にして、気づきの力を高めていきましょう。

 

自我は、人間が生きているうちに徐々に形成されていきますが、自己は生まれたときから何も変わっていません。

自己とは、霊性心のことであり、本当の自分のことです。

時折、自分の常識や価値観を取っ払って、本当の自分に還るようにしましょう。

 

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