照心洗心録

安岡正篤、中村天風などから学んだことをまとめています。

33.顕在意識の積極化

「今日一日、怒らず、恐れず、悲しまず、正直、親切、愉快に生きよ」

中村天風

 

この世界に存在する万物は、この宇宙の始まりのエネルギーからつくられていて、見た目の形は変わっても、エネルギー自体はまったく変わってません。

増えもしなければ減ることもなく、汚れることもなければ清められることもありません。

しかし、人間は自分が感じたものに判断を加え、勝手に色をつけてしまいます。

その結果、心にさまざまなものが映し出されるのです。

 

この世のすべては同じ一つの気でできており、その気の動きである心は無色透明ですが、人間の感情によってさまざまな色に染まります。

水は無色透明ですが、太陽の光が当たると空の青さを映して青く染まります。

しかし、陽が沈んで夜になると、海は真っ黒に見えます。
心も積極的な気持ちを失い、消去的になってしまうと、暗く染まってしまうのです。

 

人の声は実際はただの空気の振動ですが、それを消極的に受け取れば、心は濁ってしまいます。

それは自分に向かって飛んできているボールに、避けることができるのに、あえて当たりに行くようなものです。
ただの空気の振動に意味を与え、心を濁らせているのは自分自身なのです。

他人に何を言われようと、事実はただ空気が振動しているだけです。

歩いているときに、他人と肩がぶつかると嫌な気分になりますが、事実はただ物体同士がぶつかっただけで、それに意味を持たせているのは自分自身です。

他人とは体がぶつかることはありますが、心がぶつかることはありません。

それは、体がぶつかったことで、自分で心を動かしているのです。

自分の心を濁らせるのは、自分だけだということを忘れないようにして、自分の心と体を客観的に観察するようにしましょう。

何が起こっても、それは心と体の問題であり、死なない限り、霊魂は変わらないままなのです。

 

心を濁らせる原因は、本能心か理性心のどちらかにあります。
体由来の本能心は、体を守るために働いています。

また心由来の理性心は、物事の正誤や善悪を判断して、本能心を抑えるために働いています。

日頃から、自分の心で働いているのは、本能心なのか、理性心なのか、どちらなのか意識していれば、心に振り回されることが少なくなります。

「今痛みを感じているのは、体を守るために本能心が働いてるんだ」と思えば、少しは冷静でいられるかもしれません。

 

かつて人間が弱肉強食の世界で生きていたとき必要だった、強い怒りや妬み、猜疑心などは現代では不要になっています。

これらのことを不要残留本能心といい、意識のうえに浮かべていると、心が消極的になってしまい、人間のエネルギーを奪ってしまいます。

不要残留本能心が意識のうえに登ってきたら、心を整理して、すぐに消すようにしましょう。


心に雑念があると霊性心は隠されてしまい、宇宙からエネルギーを受け取る分量が減ってしまいます。

眠ることによって、心身が回復するのは、霊性心が雑念に邪魔されることなく働いて、宇宙からエネルギーを多く受け取っているからなのです。

人間以外の動物も寝ているときは霊性心が働きますが、しかし理性心がないため、起きているときは本能心が抑えられず、霊性心を働かせることができません。

 

自分は消極的になっていないか。

本能心や理性心にふりまわされていないか。

常に自分の心を観察するようにしましょう。

 

霊性心を発揮するためには、普段から私たちが感じている顕在意識を積極化させ、意識の外に雑念を押しやらなくてはなりません。

そのための実践方法をみていきましょう。

 

一つ目は内省検討です。

自分自身の考えや行動、心の状態を客観的に観察して、消極的になってないかどうか調べます。

もし消極的になっていたら、直ちに心を積極的に変えるよう努めましょう。

今の自分の心の状態に気づく習慣をつけることが、とても重要になります。

なぜなら、その習慣があれば、消極的になったとき、すぐに改めることができるからです。

怒りや恐怖、悲しみに心を奪われないように気をつけましょう。

 

二つ目は暗示の分析です。

他人の話を聞いていたら、いつの間にか心が消極的になってしまうことがありませんか。

たとえ悪気がなかったとしても、消極的な感情から発せられた言葉は、それを聞いた人の心を消極的にほうに引っ張っていきます。

消極的な言葉から発せられた言葉は、表面的にはそうでなくても、消極的な想いが暗に示されているのです。

人には、暗示を受け取る能力があります。

だから、落ち込んでいる人と一緒にいれば、いつの間にか周りにいる人も暗くなっていくのです。

逆に、積極的な人と一緒にいれば、周りの人も積極的になっていきます。

幼稚園などで誰かが泣き出すと、つられて周りの子が泣き出すのは、人には同化作用があるからなのです。

だから、誰かの言動を受け取る時は、そこに消極的な感情が暗示されていないか確認しましょう。

もしそれが消極的なものならば、消極的なほうに引っ張られないように気をつけましょう。

 

三つ目は交人態度です。

人と交わるときは、積極的な態度で接するように意識しましょう。

自分が積極的な態度なら、相手も積極的なほうに引っ張られ、さらに自分もそれに引っ張られるという相乗効果が生まれます。

積極的な心と消極的な心は、同時に存在することができません。

だから、積極的な態度で人と交わり、周りを積極的に変えていきましょう。

そうすることは、結局自分のためにもなるのです。

 

四つ目は苦労厳禁です。

目の前のことに頭を悩ませるならまだ仕方ないですが、もう起きたことや、未来のことを心配して、心を煩わせてないでしょうか。

悩んでいても過去は変わりません。

また、未来のことを心配しても、不安になるだけで、結局なるようにしかなりません。

今起きていることに関しても、必要以上に頭を悩ませて、無駄な苦労をしないようにしましょう。

特に心配性な人は、将来のことを心配しやすいので、取り越し苦労厳禁を心がけましょう。

心配は百害あって一利なしです。

 

五つ目は正義の実行です。

「こんなことしないほうがいいのに」と後ろめたさを感じながら行動すると、心は消極的なほうに引っ張られてしまいます。

そして、それが習慣になると、心は堕落していき、人間が駄目になっていきます。

心に後ろめたさを感じないように、自分が正しいと思うことをしましょう。

お天道様に顔向けできないようなことはしないようにしましょう。

儒教経書の一つである「大学」には、「君子は必ずその独りを慎むなり、小人閑居して不善を為す。至らざる所なし」とあります。

徳のある人は独りでいるとき、必ず慎み深くしますが、徳のない人は他人の目がないと悪いことをしだして、そこには限度がありません。

また「大学」には、「その意を誠にすとは、自らを欺くことなきなり」とあります。

自分の意思を誠実にするということは、自分で自分を欺かないということなのです。

宇宙の心である真善美を思い出して、正直、親切、愉快に生きましょう。

 

人間は生まれる前は何も持っていなかったし、死んだらすべて無くなります。

そう考えれば失敗したとしても、失うものはありません。

人間はたくさん物を持ちたがりますが、死ぬときは、寝転ぶことができる場所と食べる物と着る物が少しあればいいのです。

だから、あとはおまけのようなもので、すべて欲にすぎません。

人生を楽しむ心があれば、他に必要な物はあまりないのです。

生きることに喜びと感謝を持つことを忘れずに、これら五つを日々心がけて、積極観念を養成していきましょう。

 

おすすめ書籍

中村天風「幸福なる人生」

32.力の結晶

「一人でも淋しくない人間になれ」

頭山満

 

人間の本質は霊魂であり、その霊魂は宇宙霊の一部です。

そして、宇宙霊はこの宇宙の万物を創造する源になります。

ならば、人間の本質は宇宙の万物を創造する力ということになります。

 

この世の万物は、人間の霊魂と同じで、細かい粒子でつくられています。

そして、その細かい粒子である気の動きをあらわすものが心です。

気にする、気づく、気を失う、気を遣うなど、気という漢字を使って、心の動きは表現されますよね。

心と気は密接な関係を持っています。

 

心が消極的だと、宇宙霊からエネルギーを受け取ることができなくなります。

宇宙霊からエネルギーをもらうには、心の状態を積極的にして、宇宙の積極的なエネルギーと同調することが必要です。

宇宙の働き、つまり造化は自然そのものなので嘘偽りがありません。

そして太陽が分け隔てなく誰でも照らすように、宇宙は差別することがありません。

そして自然の景色を見ればわかるように、宇宙の働きは調和がとれています。

宇宙霊と同じ真善美の心を持って、宇宙のエネルギーをより多く取り込みましょう。

 

朝になれば、暗かった空を太陽が昇っていき、空は青く染まっていきます。

そして夕方になって陽が傾くと、空は赤く染まります。

それは太陽の周りを規則正しく地球が廻っているからです。

春になれば、植物は新芽を伸ばし、色とりどりの花を咲かせます。

そして秋になれは、葉は赤く染まります。

毎年、間違うことなく季節は巡っていきます。

台風などの災害によって、枝葉が傷ついたとしても、植物はひとりでに回復していきます。

すべて当然のことですが、改めて考えてみると奇跡のように思えませんか。

 

人間は真理の中で生きれば、寿命が尽きるまで、幸福に人生を過ごすことができるはずです。

明けない夜がないように、必ず春がやってくるように、宇宙は間違えたりしません。

造化と共に生きれば、人間は生命を全うできるようにつくられているのです。

霊性心は人間の本然の心であり、造化と共にあります。

しかし、人間には霊性心を覆い隠してしまう本能心と理性心があります。

本能心は生きていくために必要で、理性心はその本能心を抑え、霊性心の発揮を助けてくれます。

どちらも重要な役割を持っていますが、使い方を間違えれば、ストレスを生む原因になってしまいます。

どんなに優れたものであっても使い方を間違えれば、役に立たないどころか、害を及ぼす可能性すらあります。

自動車だって操縦ミスをすれば、大事故を起こしてしまうかもしれません。

本能心や理性心も使い方を間違えれば、苦しみのもとになってしまいます。
生きることが苦しみに満ちているなら、それは心の使い方を間違っているのです。

 

人間の霊魂は、力の結晶であり、その背後には常に宇宙霊がいるので、いつだって人間は孤独ではありません。

逆境に立たされることがあっても、そのことが理解できていれば、寂しくはないはずです。

宇宙はいつだって万物を、嘘偽りなく、平等に、調和をもって育んでくれます。

万物の霊長である人間は、そのことを理解できる唯一の生物なのです。

 

おすすめ書籍

中村天風「力の結晶 中村天風真理瞑想録」

31. 病気を克服する

「病は忘れることによって治る」
中村天風

 

もし、現代になって急増しているうつ病神経症になってしまったら、どう克服すればいいでしょうか。

孫子の兵法に「相手と自分のことを知れば、百戦しても危険はない」とあるように、まずは病気について理解することが重要です。

相手のことを知らなければ、作戦や対策を立てることができないので、行き当たりばったりになってしまいます。

 

うつ病神経症を患うと、自律神経が乱れてしまいます。

なので、まずは自律神経を安定させることが重要になります。

そのためには、規則正しい生活を送り、過度なストレスを避けなければなりません。

栄養のバランスを考えて食事をとり、お風呂は血流を良くするため、ゆっくりと湯船に浸かりましょう。

人間は体温が下がるときに、副交感神経が働いて眠りにつきやすくなるので、寝る前にお風呂に入りしょう。

また、ストレスが溜まったときのために、それを発散できる方法をいくつか持っておきましょう。

運動や散歩などのできるだけ体に良いものから行うようにして、それでも駄目なら段々と価値の低いものに下げていくようにします。

暴飲暴食などの体に負荷がかかるものは最後の手段に取っておきましょう。

 

人間には自我があります。

なので思考をすると、どうしても主観が入ってしまい、実際の現実とは違う思い込みや、認識のズレが生じてしまいます。

なので、自分のことを客観的に考えることが大事です。

例えば、考え方は偏っていないか、自分の長所と短所は何なのか、どのような癖を持っているかなど、自分の特徴について考えてみましょう。

自分の特徴を知っているほうが、容易に自分を変えることができます。

 

自分のことを知るためには、他人のことを知ることも重要になります。

他人と比較すれば、より正しく自分を理解できるからです。

人類の歴史をみてみれば、さまざまなタイプの人間がいることがわかります。
例えば、織田信長のように常識にとらわれず合理的に行動するタイプや、豊臣秀吉のように積極的に何にでも挑戦するタイプ、徳川家康のように、忍耐強く気長に物事を考えられるタイプなどがいます。

戦国時代や幕末は、季節でいえば停滞した冬から新しい春へと変わる変革の時期なので、魅力のある人物がたくさん登場します。

歴史上の人物と自分を比較して、自分がどのようなタイプなのか考えてみましょう。

 

うつ病神経症の一番の原因はストレスなので、それらを患った場合、何かしらの無理をしている可能性が高いです。

それは自分を見誤ることで、自分に合った生き方をしていないせいかもしれません。

歴史上の自分と同じようなタイプの人物が、どのような状況で成功や失敗をしているのかをみてみましょう。

そうすれば、自分の生き方を見直すことができます。

現代で起こっている問題は、過去にすでに起きたがかたちを変えているにすぎません。

どんな問題もそれを解くヒントは歴史の中にあるのです。

 

病気は、意識すればするほど悪化していきます。

なので、最も大切なことは、病気について考えないことです。

消極的な考えにとらわれていると、病気はさらにひどくなっていきます。

病気について考えることをやめれば、ただの体の異常になるので、あとは宇宙に任せておけば、勝手に治っていきます。

転んで擦り傷ができても、放っておけば治りますよね。

 

すぐに消極的なことを考えてしまうのは、無意識の中に不要な本能心が残っていることが原因です。

恐怖、怒り、不安などは本能心から生まれる感情です。

幼い頃に経験した恐怖体験などが、不要な本能心として心の奥底に残っているので、すぐにそのような感情が湧いてきてしまいます。

かつての弱肉強食の世界では、恐怖や不安は外敵から逃げるために役立つものでしたが、現代社会では不要なものになってしまいました。

仕事中にストレスを感じても、そこから逃げ出すことはできませんよね。

だから、これらの不要な本能心を、心の奥底から消していかなくてはなりません。

そのためには、日々積極的な心を持つことよって、それらを少しずつ薄めていくことしかありません。

 

体に病が生じると、それが気になって消極的になりがちですが、実はチャンスにすることもできます。

宇宙法則に反したときに、体に破壊の作用が起こり、病が生じるので、病は今の生活に何らかの問題があることを、宇宙が教えてくれているのです。

だから、病は自分を更生するチャンスになります。

病になるということは、道から外れているということであり、宇宙法則に背けば、健康か運命に何らかの問題があらわれてきます。

 

積極的な心を持てば、宇宙霊と同調して生きることができます。

そして積極的な心をつくるためには、真理を学んでそれを実践し、自分自身を叩き直していくしかありません。

結局のところ、すべてはそこに尽きます。

病気を克服するのも、徳を積むことも、悟りを開くことも、造化と共に生きることも、真理の中で生きることもすべて同じことなのです。

自然のままに即座に応じていくことを本然即応といいます。

30. 病と病気

 「百病はみな気より生ず。病とは気病むなり、ゆえに養生の道は気を調ふるにあり」

貝原益軒

 

病気という文字は、病(やまい)と気という漢字を合わせてできています。

つまり、気を病むと書くことで病気になるのです。

体の不調を病、心の不調を病気として分けて考えてみましょう。


風邪をひいて熱が出て、体がだるくなるのが病で、それが原因で消極的なことばかり考えてしまうのが病気です。

転倒して骨折して、体が痛むのが病で、それが原因で職場に行きたくなくなるのが病気です。

 

人間の脳内には神経伝達物質という情報伝達を介在する物質があり、その中のセロトニンには心を安定させる作用があります。

しかし、人間はストレスを感じると、脳幹にあるセロトニン神経が抑制され、セロトニンの分泌が減ってしまいます。

すると、心は不安定になってしまいます。

この状態に病と病気を当てはめて考えてみると、脳内のセロトニンが減っている状態は、体に起こった異常なので病になります。

そして、脳内のセロトニンが減ったことにより、心が消極的な状態になってしまうのが病気です。

セロトニンが減ることで心は不安定になりますが、それに振り回されなければ、病気にはなりません。

体に病があろうと、心がそれを相手にしなければ病気にはならないのです。

 

人間の心と体は、密接に関係し合っています。

陰陽であらわせば、体が表面にある陽であり、心が内側にある陰になります。

そして陰陽である心と体を生んだのが、太極である霊魂です。

精子卵子が受精すると、体に血液を送る心臓よりも先に、心の活動をつかさどる脳がつくられます。

人間にとって根幹になるのが心で、枝葉にあたるのが体なのです。


体が異常を感じれば、心にそれが神経を通して伝えられ、心は痛みを感じます。

逆に心がストレスを感じ続ければ、それは神経を通じて体に伝えられ、体に不調が生じます。

心が原因になって、体にさまざまな不調が生じる症状を心身症といいます。

ストレスが原因で、胃酸が出すぎることで胃潰瘍になったり、腸が過敏になって腹痛や下痢が起こる過敏性腸症候群になったりします。

頭痛、腰痛、動悸、めまい、過呼吸心身症の症状は多岐にわたります。
原因がはっきりしないまま、いつまでもストレスが解消されないと、体がストレスの原因を別に作り出してしまうのです。

心は検査できないので、心身症による腰痛やめまいは検査をしても原因がはっきりしません。

そのため不調の原因を解明しようとして、いくつもの病院を渡り歩くドクターショッピングをする人が生まれます。

 

医薬品は物質なので、物質である体にしか影響を及ぼしません。

医薬品が心の不調に効果があるように感じるのは、体の状態が改善したことによる結果なのです。

精神科の薬は、脳内の神経伝達物質の働きを改善します。
抗うつ剤は脳内のセロトニンの量を増やし、心を安定させますが、心そのものを改善させるわけではありません。

だから、抗うつ剤うつ病の根本的な解決には繋がりません。

なぜなら、うつ病の原因は心の使い方に問題があるからで、それを解決しないかぎり、いずれまたセロトニンの量は減っていくからです。

医薬品は、心を直接的に変えることはできません。

抗うつ剤を飲んで症状が落ち着いても、心をつくり変えていないと、薬をやめたときに、また症状が再燃してしまう可能性があります。
身内との死別や癌の告知を受けるなど、一過性の強いストレスでうつ病になった場合は、時間が経てばその事実を受け入れ、心の問題はいずれ解決していくでしょう。

抗うつ剤を飲めば、うつの重症化を防ぎ、早く健康な状態へ戻ることができます。
しかし性格や考え方などが原因で、うつ病が発症した場合、薬を飲むだけではうつ病が完治することはありません。

なぜなら、薬は心の問題を解決してくれないからです。

抗うつ薬が脳内のセロトニンを増やしても、心の問題がまたセロトニンを減らしていきます。

医薬品は体の不調には直接的な効果がありますが、心の不調には直接的な効果はありません。

医薬品で心の不調が治ったようにみえるのは、体の不調が治ったことにより、間接的に心の状態が改善されたからです。


高血圧や、糖尿病、脂質異常症などの生活習慣病も、医薬品を飲むだけでは完治しません。

生活習慣病は心の病気ではなく体の病ですが、心を入れ替えないかぎり、病はまた生じます。
なぜなら、医薬品は体に作用し、血圧や血糖値、コレステロールなどの値は下げてくれますが、生活習慣までは改善してくれないからです。

薬を飲んでいれば、状態は改善されていきますが、薬を止めれば、また状態は悪化していきます。

血圧やコレステロールの薬は、「一度飲み出したらやめられない」と言われますが、それはこのような理由があるのです。
生活習慣がさらに悪化したり、高齢になって体の機能が落ちてくると、さらに薬の量を増やすことになるかもしれません。
医薬品には心を改善させることはできません。

 

人間の根幹は心なので、まずは体より心が重要になります。

だから、体に病があっても、心まで病ませてはいけません。

「病は気から」というように、大切なのは心の持ちようなのです。

心が病を相手にしないかぎり、心は病気にはなりません。

どんな時も、自分の心が消極的になっていないか気をつけるようにしましょう。

29. 意識と記憶

「我々の忘却してしまったものこそ、ある存在をいちばん正しく我々に想起させるものである」

マルセル・プルースト

 

覚醒していることを意識があるといいますが、意識には自分で認識できる部分とできない部分があります。

そのうち自分で認識できる部分を顕在意識といい、認識できない部分を潜在意識といいます。

例えば、寝ているときは顕在意識はなく、潜在意識のみになります。

 

人間は記憶することによって、過去の経験の内容を保持して、後から思い出すことができますが、記憶は記憶している時間の長さで三つに分類されます。

一つ目は、机の上に置いている物のような、記憶してはすぐに忘れていくワーキングメモリーです。

机の上には必要な物を置いて、それが不要になったら片付けますよね。

二つ目は、机に貼り付けた付箋のように、一時的に記憶して、不要になったら忘れる短期記憶です。

後ですることを付箋にメモしておけば、忘れることがなくなります。

三つ目は、本棚に並べられた書物のように、長く記憶される長期記憶です。

書物はいつでも読み返すことができます。

短期記憶とワーキングメモリーは同じものとして扱われることがありますが、ワーキングメモリーは作業するための瞬間的な記憶で、短期記憶は計画や予定などを一時的に覚えている記憶です。

長期記憶は、パソコンでいえば、データを保存するハードディスクにあたり、ワーキングメモリーは、プログラムやデータを一時的に保存するメモリにあたります。

ハードディスクが大きくても、メモリが小さければ、一度に処理できる量が限られ、キャパをオーバーするとパソコンは固まってしまいます。

 

余計なことを考えていると、それにワーキングメモリーが使われてしまいます。

作業机の上を整理せずに、関係ない物まで置いているとその分作業するスペースが減ってしまい、作業効率が落ちますよね。
例えば、ワーキングメモリーの二割を別のことに使っていると、その人は八割の能力しか発揮できないことになります。

 

人間は、一度経験したことは思い出せないだけで、すべて記憶しているといいます。

ふとしたことをきっかけに、記憶が戻ることがありますよね。

今までに経験したことは、頭の奥底に断片的に残っているのです。

だからこそ、まだあまり記憶がない幼い頃に経験したことは、心の中に残り続け、一生涯にわたって影響を与え続けます。

忘れられた記憶は、思い出せないだけで、潜在意識の中に眠っているのです。

 

では、記憶は脳のどの部分に保存されているのでしょうか。

知識や出来事などの記憶は、まず大脳皮質の内側にある大脳辺縁系の海馬に短期記憶として保持されます。

その後、それが脳の表面の大脳皮質へ転送され、そこで長期記憶として貯蔵されます。

大脳皮質は人の脳といわれ、五感や言葉、思考などの高度な機能をつかさどります。

また、大脳辺縁系は馬の脳といわれ、喜怒哀楽などの感情をつかさどります。

大脳皮質は新しい脳と呼ばれ、大脳辺縁系と脳幹は古い脳と呼ばれています。

脳幹は爬虫類の脳といわれ、脳の一番奥にあり、呼吸や体温調節など生きるための基本的な役割をつかさどります。

 

スポーツなどの動作の記憶は、大脳辺縁系よりも内側にある大脳基底核と、後頭部の下方にある小脳に貯蔵されます。

大脳基底核が大まかな動きを、小脳が細かい動きを記憶します。
自転車の乗り始めは運転することは難しいですが、いつの間にか簡単に運転できるようになっていますよね。

それは、小脳が体の動かし方を記憶したことで、意識せずとも体が動くようになったのです。

このようなことを「体が覚えている」などと表現しますが、実際は小脳が記憶しています。

 

恥ずかしい思いをしたときに顔が紅潮したり、緊張したときに息が苦しくなることを、情動反応といい、闘うか逃げるか反応とも呼ばれます。

情動反応は、まず大脳辺縁系の一部である扁桃体が、何かしらの刺激を感じたときに、それが命に関わるかを一瞬で判断することから始まります。

扁桃とはアーモンドの種子ことで、それに形が似ていることから扁桃体と名付けられました。
扁桃体が刺激を不快と判断すると、大脳基底核の内側にある、間脳の視床下部から指示が出され、腎臓の上にある副腎皮質からストレスホルモンと呼ばれるコルチゾールが分泌されます。
コルチゾールが過剰に分泌されると、動悸がしたり、手足が震えたり、血圧が上昇したりします。

また、コルチゾールが慢性的なストレスなどで長期間分泌されると、脳の海馬の神経細胞が萎縮し、うつ病になりやすくなります。

また、パニック障害扁桃体の過活動に原因があるといわれています。

28. 人間の価値観

「古の人は、学びて以て徳を己に成さんことを求む」
荻生徂徠

 

現代になって急増した精神の病気に、うつ病や、かつてはノイローゼといわれていた神経症があります。

最近は精神科や心療内科だけでなく、内科や循環器科などでも、頻繁に抗不安薬睡眠薬が処方されていることが問題になっています。

 

うつ病神経症が急増した原因には、文明が急激に発達したことが考えられます。

そのスピードが早すぎて、人間の体が環境の変化についていくことができないのです。

また、社会のシステムが大きく変わることで、国家のあり方や、価値観や倫理観も変わり、人間の心にも大きな負担がかかっています。

 

人間は他の動物と同じように、もとは自然の生き物なので、自然から離れすぎると不調が生じてしまいます。

口に入れるものも、自然の物を多く摂ったほうがいいことがわかっています。
現代は食品に保存料や着色料が使われるようになり、日常的に化学物質を口に入れるが当たり前になってしまいました。

薬品も、もちろん化学物質です。

最近では、加工食品を食べることが当たり前になっていて、原形を留めていないものを食べることが多くなっています。

原形とは、もとのありのままの形のことです、

加工食品ばかり食べることによって、体がそれに慣れてしまい、逆に自然の物をうまく吸収できずに、お腹を下してしまう人も増えているようです。

 

かつて、人類の労働の中心部が農業だった頃は、人類は集落の中で助け合って生きてきました。

しかし文明が発達すると、周りの人と助け合う必要性が減ったので、個人のプライバシーを優先するようになりました。

そのため、かつては助け合っていたはずの近隣住民とのトラブル増えています。

地域の中で助け合うという習慣がなくなると、子どもを持つ親は、他人に頼る事なく、自分たちだけで子どもを育てなければなりません、
すると、どうしても利己的に物事を考えるようになり、個人を尊重する風潮はより強くなっていきます。

 

精神の病気が増えた原因の一つに、教育の問題があります。

幼い頃に受ける教育は、印象強く心に残るので、とても重要です。

もし間違った教育を受ければ、間違った価値観が心に植え付けられてしまいます。


現代の日本の義務教育には違和感を感じます。

日本には多くの寺や神社がありますが、その違いを知らない人が大勢います。

数学の連立方程式よりも、まずはその違いを教えることが先ではないでしょうか。
形式的ではない、日本の血の通った歴史を知るためには、神道と仏教は欠かせません。

社会の授業で習う日本の歴史では、日本の精神は血肉とはなっていかないのです。

アメリカ人は、誰もがキリスト教を知っていますが、同じように日本人は神道を知っているでしょうか。


第二次世界大戦の敗戦国である日本は、GHQによって教育のあり方を変えられてしまいました。

本来、戦勝国が敗戦国の憲法をつくったり、相手国の歴史を消したり、書物に発行禁止処分を与えたり、特定の書籍の所持を禁止したりすることは国際法上許されません。

相手国の民族や文化を踏みにじる行為は、絶対に許されない蛮行です。

なのに「自由と平和」を標榜するアメリカは、それを平然と行ないました。

国家神道は廃止され、日本の歴史や伝統の正統性を教育できないようにしてしまったのです。

日本のことを弱体化させようとして、儒教などの道徳教育を禁止して、優れた人物ができないように手が加えられてしまいました。

現在の教育もまだその影響を引きずっているように思われます。

 

江戸時代には、儒学などの道徳教育が当たり前に行われていました。

しかし、私が子どもの頃に受けた道徳の授業で覚えているのは、戦争やいじめ、差別はいけないということくらいです。

道とはこの宇宙の真理を実践することです。

また、徳とは人間の本質のことをいいます。

言い換えるなら、いかに霊性心を多く発揮できるかということです。

その二つを合わせたのものが道徳なのです。

戦争の悲惨さや、いじめや差別がいけないことを学ぶことも重要ですが、それは枝葉末節のことであり、道徳の根幹ではありません。

義務教育の授業の一コマで論語などを学べば、日本人のモラルはかなり回復するのではないでしょうか。

 

二次世界大戦の頃は、日本は軍部が暴走をして異常な状態になっていました。

頭山満中村天風安岡正篤も、第二次世界大戦には反対をしていました。

皇族であり軍人でもある東久邇宮稔彦王は、日中戦争が拡大して米英との戦争になることを防ぐために、日中関係の和平会談を蒋介石とするように頭山満に依頼しました。

頭山満辛亥革命を行った孫文を支援したので、その側近をしていた蒋介石頭山満のことを慕っていたのです。

蒋介石からも「頭山翁だけとなら会いましょう」と前向きな返事を受け取っていましたが、新しく首相に就任した東條英機に「勝手なことをしてもらっては困る」と妨害され、会談は幻となってしまいました。

その頃の日本は、中道を失っていたのです。

そうなってしまったのは、欧米諸国に追いつくために、道徳教育をおろそかにしたことが一番の原因だと考えられます。

 

間違った教育と洗脳は紙一重です。

間違った教育を受ければ、間違った価値観がつくられ、誰かの都合の良い駒にされてしまうかもしれません。

そして、そのことに自分では気づくことができないのです。

ヒトラー政権下のドイツの学校では、ヒトラーを崇拝させるための洗脳が行われていました。

それで子どもたちはヒトラーを神格化し、戦争に行くことを誇りとしていたのです。

 

人間の価値観は環境と教育によって、大部分が形成されます。

ヒトラー政権下のドイツのように、異常な環境に置かれ、教育によって間違った情報を繰り返し与えられれば、価値観は簡単に刷り込まれます。

教育は、人間の人生観を決定する儒教なものなのです。

現代の日本の教育は、人格を形成していくための教育ではなく、機械的な技術を学ぶための教育になっています。

言い換えるなら、社会に出てお金を稼ぐための教育です。

だからこそ、私たちは自ら書物を読んで、先人たちの言葉や生き方から、しっかりと自分の価値観を形成しなければならないのです。

27. 立命と運命

「人間が浅はかで無力であると、いわゆる宿命になる。人間が本当に磨かれてくると運命になる。すなわち、自分で自分の命を創造することができるようになる」

安岡正篤

 

命は、疑問を挟む余地がないほど絶対的なものです。

だから、「なぜ人は生きているのか」と考えることは無意味になります。

命とは絶対的なものなので、あらかじめ、すべてが決まっていると考えることができます。

これを宿命といいます。

例えば、病や困難は宿命であり、それらは命に生まれる前から、可能性として宿っているのです。

 

「自分はなぜ生きているのか」と考えることは無意味なことですが、「自分はどうあるべきか」と考えることには意味があります。

これを義命といいます。

そして、自分の命の使い道を探して、主体的に生きていると、あるとき自分に与えられた使命を知ることができます。

これを知命といいます。

 

すべての人に、それぞれ必ず何かの役割があります。

それは人に限ったことでなく、万物が何かの役割を持っています。

天に棄物なしといって、この世に不要な物はなく、万物が役割を持っているのです。

それぞれがそれぞれの役割を果たすことで、この宇宙は成立しています。

 

自分の使命を知ったら、今度はそれを実行に移していかなくてはなりません。

実際に行動することによって、自分の役割を果たしていくことを立命といいます。

 

人間が立命して、主体的に宇宙の働きに加わっていくと、その命は宿命に縛られず、自主的に動き出します。

人間の運命の中には、機械的他律的な宿命と、自主的・自律的な立命があるのです。

運という文字には、動くという意味と、巡るという意味があります。

動物は、本能心だけで生きているので、宿命的になります。

 

人は悟りを得ると、多少のことでは動じなくなるといわれます。

しかしそれは、悟っているつもりになっているだけかもしれません。

悟ったつもりになることを石に、本当に悟ることを宇宙になることにたとえてみましょう。

心が石のようになったら、多少のことでは動じませんが、その命は自主性を失い、宿命に陥ってしまいます。

その命は自ら動き出すことがなく、決まったレールを進むだけになるのです。

心が宇宙の一部となって、真理と共に生きるようになれば、多少のことでは動じなくなり、その命は、宇宙の進化と向上に加わっていきます。

真の悟りとは、心が固定されることではないのです。

 

立命は、自分一人の力では実現できません。

誰かの想いを受け継いだり、誰かの助力を受けたり、さまざまな縁によって命は立つのです。

それは生きている人物からの影響だけでなく、書物を通じた偉人との出会によるものかもしれません。

 

立命をしても、人がいずれ死ぬことや、その命に与えられた役割などは、決して変わることはありません。

そのような絶対的なものを天命といいます。

 

自分の良心に従って何かを実行するとき、その結果は問題ではありません。

それに対して最善を尽くすことが重要なのです。

偽りのない誠実な気持ちで物事に臨めば、その想いは必ず他の誰かに伝わっていきます。

先人たちは人類の未来を良いものにしようと、理想を追い続けました。

私たちは先人たちの想いを、未来へ繋いでいきましょう。

 

成功か失敗かは問題ではありません。

重要なのは、誠の心であるかどうかです。

そうであるならば、周りは気にせずに、自分がすべきことをすればいいのです。

事の大小も問題ではありません。

百人で達成できたことは、その内の一人でも欠けていれば、達成できなかったかもしれません。

目立つ功績を上げた一人も、陰で支えていた一人も、どちらも欠けてはならない一人なのです。

 

一度切りの人生、自分に与えられた使命を知り、それに情熱を注ぎましょう。

ただ漠然と生きているだけでは、人生は宿命に支配されてしまいます。

そうなると、人は自分の使命に気づくことなく、一生を終えることになります。

立命をすることで、自分の命を世に役立てれば、その生命が尽きても、想いは誰かの中で生き続けます。

体が死んでも、魂は存在し続けるのです。

このようにして、人類の過去と未来は繋がっていきます。

 

人類は進化と向上という使命を持って、この世に生まれてきました。

人類の使命を果たすため、立命をして、自分の役割を果たしていきましょう。

 

おすすめします

安岡正篤知命立命

26.便利さの代償

「真の科学は、継続的段階を経て秩序ある順に進むものである」

レオナルド・ダ・ヴィンチ 

 

自然は自ずから然ると書くように、何も取り繕ったりしない、ありのままのものです。

すべてが真実であり、偽りがありません。

当たり前のことですが、自然は嘘をついたりしないのです。

しかし、生物は進化していくうちに、相手を欺くようになりました。

そして人間は、文明が発達するにつれて、その自我を大きくしていき、自分にまで嘘をつくようになったのです。

宇宙の心である真善美から離れていき、道理から外れた生き方をするようになってしまったのです。

 

人間には本能心があり、そこから欲望が生まれます。

人間の欲望は底が知れないので、人間は本能心をコントールしなければなりません。

一つの欲望を満たしても、それでは飽き足らず、また新たな欲望をみつけるので、いつまでたっても満足することがないのです。

本能心をコントロールしないと、人間は自分の欲望を満たすために、嘘をつくことを何とも思わなくなってしまいます。


人間は比較することによって物事を考えます。

周りより自分の方が劣っていると感じれば不満に思うし、自分のほうが優れていると思えば満足します。

同じ生活をしていても、付き合う周りの人によって満足度は変わるのです。

だから、便利な生活をしていても、幸福とは限りません。

人間の幸福は、心一つの置きどころで変わります。


本能心で生きているかぎり、自分の生活をより便利で快適にするため、人は資源を取り合って争いを続けるでしょう。

猿が争って集団のボスを決めるように、人間も権力を求めて争います。

個人の争いは組織の争いに発展し、国の争いにまで発展して、戦争になるかもしれません。

そして誰かが頂点に立ったとしても、時が経てば不満を持った人々が反乱を起こします。

そのようにして、争いは永遠に繰り返されていくのです。

 

人は便利さに慣れてしまうと、以前の生活には容易に戻れなくなってしまいます。
昔は徒歩で移動することが当たり前でした。

しかし、現代は自動車で移動することが当たり前になり、歩くことを嫌うようになりました。

自転車が発明された時は、自転車に喜んで乗っていたのに、自動車が発明されると自転車で移動することですら、不満を漏らすようになるのです。
印刷技術が発明される前は、書物は値段が高くて購入できなかったので、他の人から借りてきて自分で書き写していたそうです。

しかし今では電子書籍があり、いつでもどこでも簡単に、手頃な値段で書物を購入できるようになりました。

他人から本を借りてきて、一冊丸ごとノートに書き写す人はもういないでしょう。

物の有り難みがなくなってしまっているのです。


文明が発達したことで、人は便利で快適な生活を手に入れましたが、その一方で失われたものもあります。

例えば、自動車や電車などの移動手段が発達したことによる運動不足が問題になっています。

運動不足になると、体力や心肺機能が低下してしまい、肥満や高血圧などの生活習慣病の原因となってしまいます。

また、食品の保存技術や輸送手段の発達により、その地で採れない物や、季節外れの物などを食べることができるようになりました。

その地で採れた季節の物を食べることが、人間の体にとっては一番良いので、保存技術などの発達によって人間の生命力は弱くなってしまっています。

見かけ上の寿命は延びているのは、医療技術が発展したことによるものなのです。

 

儒教において仁とは最高の徳目であり、人間にとって普遍的な愛や思いやりを意味するものです。

孔子は、君子は仁者であるべきと説きました。

また孟子は、井戸に落ちそうになっている赤ん坊を、無意識に助ける心が仁であると説きました。

あるとき孔子の弟子である顔回が、「仁とはどういうことですか」と質問したところ、孔子は「自分に克って、礼にかえることです」と答えました。

すると顔回は、「そのために具体的にどうすればいいですか」とさらに質問すると、孔子は「非礼を見てはいけない、聴いてはいけない、言ってはいけない、行ってはいけない」と答えました。

 

マスコミやインターネットが普及したことで、さまざまな弊害が生じています。

インターネットがあることで、普段は表には出さないような感情を、匿名であることをいいことに、人々は簡単に世の中に発信してしまうようになりました。

心に留めておくべき、欲望や怒り、虚栄心などがインターネット上ではあふれています。

仁を行うためには、非礼を言うことや行うことを避ける以外に、見ることや聴くことも避けなければなりません。

しかし、テレビのニュースを見たり、スマートフォンでインターネットを開けば、 人の非礼が嫌でも目や耳に入ってくるようになってしまいました。

それによって、人の「仁」は失われて続けているのです。

マスコミやインターネットの発達は、現代人が個人主義になることを助長し、殺伐とした社会を形成した要因の一つだといえます。

インターネットには、人の醜い本能心がかたちとなって残ってしまうので、それが人の心を汚してしまうのです。

 

マスコミやインターネットを発達させた資本主義社会においては、物が売れないことには経済が回りません。

そのため、企業は常に新製品を作り続け、一方で古くなった物はゴミになります。

言い方を変えれば、資本主義社会はゴミが出なければ、経済が回らない仕組みになっているのです。

捨てられた大量のゴミは、リサイクルされる物もありますが、大部分は燃やしたり小さく砕いたりした後に、ゴミ埋立地に捨てられます。

また、資本主義社会では、利益追求による苛烈な競争が行われるので、企業は道理に反したことを行うようになりました。

法を犯してまで、利益を求めるようになってしまったのです。

 

さまざまなことを述べましたが、私は文明を否定したいわけではありません。

ただ、これまで科学技術は、人間の本能を満足させることばかりに使われてきたので、これからは、人類と自然が共生していくために使われるべきだと思うのです。

便利なものがあると、人は怠惰になり堕落していきます。

だからこそ、これからは人類ではなく、地球全体のことを考えていかなければなりません。

本能心は楽をしたがるので、意識的に進む未来を選んでいかなくてはならないのです。


フィットネスジムに高い会費を払って、ロードマシンで走る人の姿を見ていると、不思議な気持ちになることがあります。

自動車に乗らず、ランニングで通勤すれば、ジムに通う必要はなくなるでしょう。

汗をかくこと、着替えがいること、朝から体力を失ってしまうこと、少し早めに起きなければならないことなど、ランニングをしない理由はいくらでも挙げられます。

しかし自動車がない時代には、徒歩か自転車で行くしかありませんでした。

資本主義社会では、何事においても効率が優先されるので、人は何をするときも、近道を探すようになってしまうのです。

 

宇宙の造化が永遠に続けられるのは、陰陽のバランスが取れているからです。

破壊も行われますが、創造が破壊を上回るので、万物は進化と向上を続けます。

人類も宇宙と同じように、陰陽のバランスを取っていくことが大切です。

そうすれば、人類も地球と共存共栄していくことができます。

ここいう陽とは科学技術を発展させる力であり、陰はそれを受容して調和していく力のことです。

現代社会は、科学技術を急激に発展させていますが、それを受容して調和できていないのです。

 

人類は文明の発達によって、便利で快適な生活を手に入れることができました。

しかしその代償に、かつては当たり前だった大切なものが失われてしまいました。

便利さを手放すことは容易ではありませんが、無理をしてでもそれを手放し、地球の未来を考えるときに来ているのかもしれません。

地球の未来を変えられるのは、人類だけなのです。

25.木の五衰

「人生のことは、これを要約すればこの『省』の字に尽きるといってもよい」

安岡正篤

 

植物が衰えていく様子を観察し、それを人間に当てはめて考えれば、人間がどのように衰えていくのかがわかります。

植物が衰えていく要因は、懐の蒸れ、裾上がり、末枯れ、末止まり、虫食いの五つに分けることができ、これを木の五衰と呼びます。

 

懐の群れ(ふところのむれ)とは、枝葉が茂りするぎることです。

そうなると風通しが悪くなって、内部に蒸れが生じ、湿度に弱い植物は病気になってしまうことがあります。
また枝葉が茂りすぎると、内側の葉に日光が当たらなくなったり、葉が増えすぎて養分が不足したりすることもあります。

時期をみて剪定し、枝の数を減らさなくてはいけません。

 

懐の蒸れは人間でいうと、知識や欲求などの自我で頭の中が無秩序になっている状態です。

木の枝を剪定するように、不要な自我は省いていかなければなりません。

現代は情報があふれているので、それをすべて頭に入れていたら、頭の中が混雑してしまいます。

また、頭の中が欲求であふれると、それが満たされないと苛立つようになります。

精神と現実の世界は繋がっているので、物を持ちすぎて、部屋が散らかっているのもいけません。

現実も精神もどちらの世界も断捨離して、必要なものだけを残しましょう。

すると、大切なものがはっきりして、身軽になります。

不要なものを抱えていると、それにエネルギーが取られてしまうので、不要なものは省いていきましょう。

 

裾上がり(すそあがり)とは、根が浅くなって、地上にむき出しになっている状態です。

空気や水や養分が、充分に植物に与えられていないと、根はそれらを求めて地上に上がってきてしまいます。

木は土の中にしっかりと根を張っていないといけません。

根が地上にはみ出したなら、環境を見直さなければなりません。


裾上がり(すそあがり)は人間でいうと、精神が落ち着いておらず、地に足が着いていない状態です。

人間も、植物が深く根を張るように、しっかりと精神の世界を潜らなければなりません。

若いうちに社会に出て派手に活動すると、人間がしっかりとできずに軽薄な人間になってしまいます。

だから、若いうちは無理に社会に出ようとせずに、読書などをしっかりして、人間をつくることのほうが大切なのです。

地に足がついていないと、頭の中が雑念や妄想であふれ、すぐに欲求不満になってしまいます。

欲求を自分で制御できずに、短絡的な行動をして、羽目を外してしまいます。

利己的にしかものを考えられない、不安定な人間になってしまいます。

過ぎた欲は身を滅ぼすので、謙虚な気持ちを忘れてはいけません。

 

末枯れ(うらがれ)は、植物の頂上のほうから葉が枯れることをいいます。

下のほうから少しずつ葉が枯れていくのは、人間が世代交代するのと同じで、自然現象なので問題ありませんが、頂上のほうから枯れていく場合、何か問題を抱えていると考えられます。

 

末枯れは人間でいうと、理想や情熱を失ってしまった状態です。

人間は理想を持って生きなくてはいけません。

情熱を失って、ただ漠然と生きることは、万物の霊長である自分への冒涜になります。

理想とは、しっかりと組織された考え方が継続することなので、曖昧なものや、長続きしないものは理想とはいえません。

頭の中で鮮明に思い描くことができ、それを長い時間継続したときに、はじめて理想となります。

継続は力なりです。

理想は霊性心から生まれるので、宇宙の創造の力が働いて、思い描くことが現実化していきます。

理想や情熱をなくしてしまえば、人は枯れてしまいます。

 

末止まり(うらどまり)は、植物が成長を止めてしまった状態をいいます。

人間でいうと、信念を失って成長をやめてしまった状態です。

人と他の動物との大きな違いに、感動するという点があります。

涙を流したり、喜んだり、笑ったり、心が感動することをやめてしまうと、人の心は固まってしまい、成長しなくなってしまいます。

昔の大きな志を持った人たちは、よく男泣きをしたそうです。

自分は「この世に進化と向上という使命を持って生まれてきたんだ」という強い信念があれば、心が固まっていくことはありません。

 

信念とは、無理に信じるものではなく、信じていて当たり前になっているものをいいます。

例えば、鉄棒で逆上がりができる人は、「おれは逆上がりができる」と自分に言い聞かせたりしません。

その人にとって、逆上がりできることは当たり前で、信念ができあがっているのです。

逆上がりできない人が、「おれは逆上がりができる」とどんなに強く想っても、それは信念ではないのです。

信じる必要がなくなったとき、それが信念になります。

少年漫画の主人公が、自分の夢を何度も口に出すのは、それを信じようとしているのではなく、それが当たり前のことになっているからです。

気づけば何度も念じているようなものが信念なのです。

 

虫食いは、植物にいろいろな害虫がついている状態です。

害虫がついたまま放っておくと、病気になってしまい、生命を失ってしまう可能性もあります。

害虫を見つけたら、すぐに駆除しないといけません。

 

虫食いを人間でいうと、悪い習慣がついてしまった状態をいいます。

人は理想をなくし堕落していくと、悪い習慣を持つようになります。

理想や情熱がなく、ただ漠然と生きているだけだと、どうしてもストレスが溜まっていきます。

すると、ストレスを発散するために感覚的な刺激を求めるようになります。
ギャンブルにはまったり、暴飲暴食したり、酒に溺れたり、色欲に溺れたりします。

そして、いつしかその刺激にも慣れてしまい、さらに強い刺激を求めるようになります。

欲望に限界はありません。
そして、日常的に強い刺激にさらされていると、感覚は徐々に麻痺していきます。
すると、欲求は過激さを増していき、グロテスクなものを欲するようになります。

異常行動をしたり、犯罪行為に手を染める者もあらわれます。
刺激を得ることが日常からすると、刺激がなければ禁断症状があらわれるようになります。

いわゆる中毒や依存になってしまうのです。

そうなると、人生を棒に振ってしまいかねません。

 

「習慣は第二の天性」といわれます。

また、「生活は習慣の織物」ともいわれます。

毎日の習慣による日々の積み重ねが、人生をつくっていきます。
悪い習慣があるならば、すぐに断つべきです。

習慣になると何度も繰り返されるので、それが悪い習慣なら、人生へ及ぼす悪影響はとてつもなく大きなものになります。

しかし、悪い習慣を断ち切るのは容易なことではありません。

悪癖を断つ秘訣は、少し価値の高い欲望で上書きしてしまうことです。

霊性心を発揮して、悪癖を頭の中から消してしまえればいいのですが、それは難しいので、本能心を別の本能心で上書きしていきましょう。

欲望は、良いものも悪いものもすべて本能心から生まれます。

総理大臣になろうと思うことも、詐欺師になろうと思うことも、どちらも同じ本能心から生まれるのです。
だから、ギャンブルにはまる人はゲームで我慢したり、お酒をやめられない人はノンアルコールに少しずつ置き換えたり、食べ過ぎる人はお米をキャベツに変えたりして、工夫して少し価値の高い欲望に置き換えてしまいましょう。

それで本能心をどうにか満足させて、騙し騙しやっていくのです。

 

枝葉が増え過ぎれば、剪定して風通しを良くするように、自分から不要なものは省いていかなくてはなりません。

現代を生きていると、絶え間なく情報が入ってきます。

無駄な知識は役に立たないだけでなく、雑念を生むもとになるので、害を及ぼすことになりかねません。

 

孟子は「自反」という言葉をよく説きました。

自反とは、自らに反(かえ)ることをいいます。

人間は外のことばかりに目がいきますが、まずは自分の内面としっかり向かい合わなくてはいけません。

自ら反(かえ)らざれば、それは自ら反(そむ)くことになります。

問題が起こったときは、その原因を外に求めるのではなく、自分の内部に探さなければいけません。

自反することによってのみ、真の勇気である大勇(だいゆう)を養うことができます。

 

自反をして、不要なもの省き、自分の根本を養っていきましょう。

 

おすすめ書籍

安岡正篤知命立命

24. 人間と植物

「自然を深く観察しなさい、そうすればすべてのことがよく理解できるようになるでしょう」

アルベルト・アインシュタイン

 

植物がエネルギーを生み出すためには、水と日光と二酸化炭素が必要です。

また土壌から栄養素を取り込むことも、成長するために必要になります。

栄養素には、葉を育てる窒素、花や実を成長させるリン、根や茎を丈夫にするカリウムなどがあります。

また、植物には数多くの種類があり、それぞれの植物にあった育て方をしなければいけません。

自宅で育てる場合、寒さに弱い植物は、冬になったら屋内に入れてあげないといけません。

また、湿気に弱い植物は、梅雨前に枝の数を減らしたり、季節によってあげる水の量を変えなければいけません。

植物が成長していくためには、適した環境が必要なのです。


自然界では、環境に適していない生物は生き残れません。

これを、適者生存の法則といいます。

生き残った生物は、より環境に適応するために徐々に進化していきます。

だから野生の植物は、自分に適した環境にしか生息していません。

海外など違う環境で育った植物を育てる場合や、季節外れの果実を収穫する場合、ビニールハウスなどで人為的に環境を調節してあげる必要があります。


人間も植物と同じように、それぞれにあった環境があるのではないでしょうか。

呼吸や食事、睡眠、排泄は生きていくために必須のものですが、それ以外にも、自分の力を発揮するためには、それぞれにあった環境が必要です。
大雑把な人には、細かい作業は向いていません。

また、臆病な人に大胆な行動を求めてもうまくいきません。
少し環境を変えるだけで、驚くほど成果を上げる人もいるかもしれません。

その人に適した地位や仕事に就けることを、適材適所といいます。

 

数百年前までは、人類は自然の中で生きていくことが当たり前でした。

しかし現代では、自然から離れて生活をするようになってしまいした。

周りの物を見てみると、植物以外のほとんどの物が人によって作られた物であることがわかります。

朝自宅から車で会社に通勤して、日中会社内で働き、車で自宅に帰って寝る。

そんな生活をしている人もいるはずです。
植物が人間によって、日当たりの悪いベランダのプランターに移されるように、現代人も自然から離され、人工物に囲まれた中で生活しなければならなくなったのです。


ここ数十年で人類を取り巻く環境は、急激に変化しています。

人類が新しい環境に適応していくのを待たずにに、文明は恐るべきスピードで発展を続けています。

人間も植物と同様に、本来は自然の中で生きるものです。

それを強引に自然から離してしまえば、さまざまな異常が生じてくるのは当然です。
かつては、神経症は贅沢病といわれていて、贅沢な暮らしをする人がなる病気でした。

それが現代では、誰もが神経症になる可能性のある社会になっています。

神経症は、以前はノイローゼと呼ばれていたストレスによって生じる心の病気です。

それはまさに、人類が豊かになった代償といえるでしょう。


人類はこれから自然に触れ合う時間を増やしていかなくてはなりません。

子どもは室内でテレビゲームをするより、外で泥だらけになって遊ぶべきです。

人間は食物からだけでなく、空気や太陽の光、土壌や水などからもエネルギーを得ることができます。

人間は太陽の紫外線を浴びないと皮膚で作られるプロビタミンDが、ビタミンDに変わりません。

ビタミンDが不足すると、骨が脆くなってしまいます。

また、土の上を裸足で歩くだけで、健康状態が改善されることがあるそうです。

 

 

屋内で育てている植物を急に屋外に出すと、日光に負けて葉が枯れてしまうことがあります。

葉焼けといって、人間でいう火傷のようなものです。

同じ株から育てた植物でも、屋外で育てた植物は直射日光に耐えられますが、屋内で育てた植物は直射日光に耐えられなくなります。

人間も同じように、清潔すぎる環境で育つと免疫力が高められず、アレルギー体質や虚弱体質になってしまうことがあります。

最初に生まれた子どもは、手がかけて育てられることが多いので、アレルギー体質になる割合が高いそうです。

子どもは手をかけて育てるより、自由に外で遊ばせるほうが免疫力が高められるのです。

 

生物には環境に適応していく能力があります。

ストレスを受け続ければ、そのストレスに徐々に慣れていくのです。

逆に、ストレスのない環境で育った生物は、生命力が強くならず、すぐに死んでしまいます。

なので、適度なストレスは生きていくうえで必要ですが、過度なストレスは禁物です。

屋内で育てた植物を屋外に出すと葉焼けしてしまうように、何年もひきこもっていた人が突然社会に出て働き出せば、体調を崩してしまうかもしれません。

植物を少しずつ日光に慣れさせるように、少しずつストレスに慣れていくことが重要です。

 

神経症の一つであるパニック障害は、予期しない突然の強い恐怖や不快感が生じるパニック発作を繰り返す病気です。

パニック障害になると、また発作が起こるのではないかという予期不安が起こり、行動範囲が狭まってしまいます。

それを克服するためには、発作が起こりえる状況に自ら近づいていき、少しずつその状況に慣れていくしかありません。

一歩ずつでも進んでいけば、いつか必ずゴールに辿り着くことができます。

一歩先さえ見えていれば、どこまでだって行けるのです。
急いで近道をするよりも、ゆっくり遠回りするほうが、結局は近道になることもあります。

 

社会の福祉が充実すると、人間は弱くなっていきます。

甘やかされた環境で育ったペットは、野生に戻って生きていくのが困難なように、人間は楽な環境に居続けると、どうしても堕落していってしまうのです。

何の義務も果たさず、ただ生きているだけだと、人間は腐っていってしまいます。

本来、権利は義務を果たした者だけに与えられるものです。

福祉が充実した国ほど自殺率は増え、原始的な生活をする国ほど自殺は少ないそうです。

過酷な環境の中で、生物は強くなっていきます。

 

過度に平等が求められる社会になり、出る杭は打たれる時代になってしまいました。

しかし、それでは個性が失われていき、多様性がなくなってしまいます。

すると、人間の進歩向上が止まってしまいます。

自由で平等な社会を求めることは素晴らしいことですが、それがエスカレートしすぎると、逆が自由が失われてしまい、生きづらい世の中になってしまいます。

どんなことでもバランスが重要なので、極端すぎるのはいけません。

 

植物が成長するためには、根をしっかりと張ることが重要です。

日光不足や水や肥料のやり過ぎが原因で、根が育つ前に茎が早く伸びてしまうと、植物は正しく成長できなくなってしまいます。

人間も植物と同じように、まずは心の土台を作らないといけません。

土台がなければ、建物を建てることはできないし、土台がしっかりしていないと、すぐに建物は倒壊してしまいます。
現代人は果実をつけることに必死になって、根幹がおろそかになっています。

技術的な学びは足りていますが、土台となる人間学が不十分です。

 

根幹が成長する前に実をつけてしまうと、栄養分が実に取られ、植物が育たなくなります。

人間も早い段階で自分の専門を決めて、自分の世界を狭めてしまうと、早くに成長が止まってしまいます。

専門化とは固定することであり、固定されれば自由な成長が妨げられるのです。

柔らかいほうが、多くのことを吸収できるので、可能性が広がります。

大器晩成といいますが、遠回りをするほうが、将来大物になれるかもしれません。

現代の科学は専門化が進んでおり、植物の枝葉のように複雑に細分化しています。

病院の診療科も内科だけでも、呼吸器内科、消化器内科、循環器内科、心療内科神経内科感染症内科、腎臓内科など細分化しています。


人類がここまで進化できた理由は、生物として専門化しなかったことにあります。

専門化せずに、スポンジのように柔らかいままでいたから、多種多様なものを吸収し、さまざま環境に適応していける知能を手に入れたのです。

早く成果を出すために、焦って果実をつけようとするのではなく、土台となる根幹をしっかりと育てましょう。

23.死生感

「人間は火のついた線香じゃ。それに気がつけば誰でも何時かは発奮する気になるじゃろう。老若誠に一瞬の間じゃ、気を許すな」

頭山満

 

人生は一度きりで、かけがえのないものです。

何があろうと、人生が二度繰り返されることはありまさん。

当たり前のことですが、案外それを忘れてしまっています。

それがわかっていれば、後悔がないよう一日一日を大切に生きているはずなのです。

 

宇宙のエネルギーは永遠に巡っていきますが、命が尽きると、人間の霊魂は散り散りになってしまいます。

人は生きていることを当然のように思って、漠然と日々を送ってしまいます。

しかし実際は、人間はいつ死ぬかわかりません。

明日、交通事故に遭うかもしれないし、事件に巻き込まれてしまうかもしれません。

天災や突然の病で、命を落としてしまうかもしれません。

「何となく人生はずっと続いていく」というような気楽な気持ちで生きていると、いざ死を目の前にしたとき、死の恐怖で目の前が真っ暗になってしまいます。

なので、しっかりとした死生感を持っておくことが大事です。

 

吉田松陰が処刑前に獄中で、松下村塾の門弟のために残した遺書である「留魂録」の中に、人の一生を四季に例えた箇所があります。

「私が死を目前にしても落ち着いていられるのは、四季の循環について考えていたからです。

つまり、農事で言うと、春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵します。

秋や冬になると、農民たちは一年の労働の収穫を喜んで、酒などを作り、村は歓声にあふれます。

収穫期を迎えて、その年の労働が終わるのを悲しむ人がいるというのを聞いたことがありません。

 

私の生は三十歳で終わろうとしています。

何も成し遂げずに死ぬのなら、穀物が実をつけなかったことに似ているので、惜しむべきことかもしれません。

だけど、私自身について考えれば、穂を出して実りを迎えた時なので、何を悲しむことがあるでしょう。

人の寿命には定まりがなく、穀物のように決まった四季を経ていくものではありません。

十歳にして死ぬものには、その十歳の中に四季があります。

二十歳には二十歳の四季が、三十歳には三十歳の四季が、五十、百歳にも四季があります。

十年の人生を短いというのは、蝉の命を木の命にしようとするようなものです。

百年の命を長いというのは、椿の命を蝉の命にしようとするようなものです。

それは、いずれも天に与えられた寿命ではありません。

 

私は三十歳、四季はすでに備わっており、穂を出して実をつけているはずです。

それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかはわかりません。

もし同志諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、 それを受け継いでやろうという人がいるなら、それは蒔かれた種子が絶えずに、 穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるでしょう。

同志諸君よ、このことについてよく考えてください」

このような遺書を尊敬する先生が残したら、門下生は発奮するしかないですよね。

吉田松陰は処刑をされる時も堂々とした態度で、首を打たれる瞬間まで落ち着いていたと、処刑人は証言しています。

自分が死を迎える時、実りのある人生だったと思えるように、一度きりの人生を後悔がないように生きないといけません。

大切なのは人生の長さではなく、中身なのです。

 

武士はいつ命を落とすかわからなかったため、死を覚悟して生きる必要がありました。

いざという時に動じないためには、日頃から死の準備をしている必要があったのです。

江戸時代中期に武士の心得について書かれた「葉隠」という書物の中に、「武士道というは死ぬことと見つけたり」という一説があります。

死を覚悟した上で臨めば、心は何にもとらわれることがなくなるので、焦ったり恐怖や不安にかられることがなくなります。

そうすれば、何事も無事にやり通すことができます。

死の覚悟ができているから、どんな時も自分を活かすことができるのです。

武士が、死を覚悟して物事に臨む気分は爽快なものだそうです。

死の恐怖を克服するために、刀を天井からぶら下げて寝ていた武士もいたそうです。

そのような日々の心掛けによって、武士は死を身近に置いていたのです。

 

他にも、死生感について参考になる和歌を紹介します。

「散る桜 残る桜も 散る桜」

これは、人間はいつか必ず死ぬことをあらわしています。

運良く生き残ったとしても、どうせ自分も死ぬことに変わりはないのです。

「切り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ」

「身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ」

人間にとって一番の恐怖は死であり、その恐怖と真剣に取っ組みあっても、いいことはありません。

捨て身になって冷静になった方が、活路を見出すことができます。

現代に生きる私たちには、死の覚悟をすることは難しいですが、死について考えて、心の準備をしておきましょう。

 

人間は、誰でも死を恐れます。

それは動物である以上、本能があるので当たり前のことです。

誰もが無条件で死を恐れます。

普段、軽々しく死にたいと言っている人も、いざ本当に死ぬとなると、死にたくないと言って態度を一変するものです。

死の恐怖は、生きる気力を奪ってしまいます。

もしも不治の病になって、心が死の恐怖にとらわれてしまうと、残りの人生が台無しになってしまいます。

 

人生について考えるときに重要なのは、生の方面からではなく、死の方面から考えることです。

生の方面から考えていると、生きていることを当たり前だと思って、有り難みを感じなくなってしまいます。

時間は無限にあると勘違いしてしまうのです。

例えば、健康な状態を百、死をゼロとして考えてみましょう。

百から見れば八十は低いですが、ゼロから見れば百も八十もどちらも高いですよね。

少しの不調で不満を漏らしているかもしれませんが、死の方面から考えればそれは幸せに他ならないのです。

 

失ったときに、本当の大切さがわかるといいますが、生きることもそうで、死に直面したときに、初めてその有り難みがわかります。

一度でも死に直面した経験があるなら、その時の気持ちを思い出せば、生きることの有り難みを思い出すことができると思います。

「もしあの時死んでいたら」と仮定したら、今生きていることは奇跡そのもののはずです。

生きていることは、それだけで有り難いのです。

「ありがたい」は漢字で「有り難い」と書くように、滅多にないことを意味します。

喜びと感謝を持って、日々を過ごしていきましょう。

 

死を考えると、死ぬまでのことを想像してしまいますが、死とは死んだ後のことであって、人は死ぬまでは生きています。

当たり前のことですが、人は死んだ後は何もわかりません。

死のことを永眠というように、死は永遠に目の覚めない夢のない眠りと同じなのです。

人は眠っているときに、自分は眠っているとは思いません。

死もそれと同じで、死んだ後には死んでいるとは思わないのです。

生まれる前のことを覚えていないように、死んだ後は何もないのです。

 

だから死は眠りと同じで、恐れる必要のないものです。

寝ることを怖いとは思いませんよね。

私たちは毎晩寝る時に、死の予行練習をしているといってもいいのです。

だから、もう死ぬことは慣れているはずなのです。

眠りに落ちる瞬間に「今寝た」と思うことがないように、死ぬ瞬間に「今死んだ」と思うことはないのです。

だから、私たちは必ず死にますが、死を体感することは決してないのです。

当たり前のことですが、生きている間は生きているのですから。

 

恐れても、恐れなくても、必ず死は訪れます。

死ぬことを恐れて、残りの人生を台無しにしてしまうより、生きていることに感謝しましょう。

死の恐怖に打ち勝つのは、とても難しいことです。

だから、自分の人生を死の方面から考えて、「まだ自分は生きてる。有り難い」と死の恐怖を生への感謝で塗り替えてしまいましょう。

生きていることに感謝できない人は、人生を生の方面から考えて、生きていることを当たり前だと思っている人なのです。

水筒の水が残り半分になったとき、もう半分しかないと考えれば消極的になってしまいますが、まだ半分あると思えば積極的でいられます。

消極的になることは、自分から運を手放すようなものなのです。

少しでも水筒の水が残っているなら、喜べるようになりましょう。

同じように、少しでも寿命があるのなら、感謝できるようになりましょう。

 

死は恐れなければ、怖いものではありません。

当たり前のことですが、恐れるから怖いのです。

だから死ぬ直前まで、生きていることに感謝をし続けて、死を恐れるのはやめましょう。

人は感謝しながら恐れることはできません。

死に直面した経験がある人は、「あの時本当は死んでいた」と考えれば、生きていること自体がラッキーだと思えるはずです。

死に直面した経験がない人も、真剣に自分が死んだ明日を想像すれば、生きていることを有難いと思えるはずです。

 

生きていることは、掛け替えのない奇跡のようなことです。

家族などの大事な人が残されてしまったところを想像すれば、今生きていることがどんなに幸せなことかわかるはずです。

 

死んだら何もなくなります。

楽しいと思うことも、つらいと思うこともできなくなります。

死んだら何もないことを考えれば、つらいと思えることも有り難いと思えませんか。

生きていて何かを感じることができるのは、とても幸せなことです。

つらいことも「生きているから感じることができるんだ」と感謝に替えてしまって、人生を積極的に生きていきましょう。

 

おすすめ書籍

中村天風「信念の奇跡」

22. 意志と至誠

「人間は魂さえ磨いて居ればよい。ほかに何も考えることはいらん。国も人も魂じゃ。魂の無い国、魂の無い人は国でも人でもない」

頭山満

 

人生山あり谷ありで、生きていれば必ず困難に直面します。

そして、逆境に置かれたときにその人の本性があらわれます。

順調なときに平然としていられるのは当たり前ですが、トラブルが起きたときに消極的にならず、落ち着いていられるかどうかは普段どれだけ自分を鍛錬しているかによります。

 

困難に直面したとき、それに負けずに進んでいけるのは意志のおかげです。

意志は霊性心から生まれるので、損得勘定も善悪もありません。

自分が損をするとわかっていても、そうすべきだという直感で体を動かさせるのが意志になります。

「かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」という吉田松陰の歌は、まさに意志について詠まれています。

当時鎖国をしていた日本では、国を出ることは大変重い罪でしたが、吉田松陰は外国から技術を学ぶためにペリーの黒船に乗り込みました。

そして、結局日本に送り返されて牢獄に入れられることになってしまいました。

大変なことになるとわかっていても、行かずにはいられなかったです。

意志は、宇宙の進化と向上の力が、霊魂を通して心にあらわれたものです。

未来に何かをするつもりという、英語のウィルにあたる意思とは異なります。

人間の本心から発せられるもので、幕末の志士がよく用いた志と同じものになります。


童話作家宮沢賢治の「生徒諸君に寄せる」という作品に、「諸君はこの颯爽たる、諸君の未来圏から吹いて来る、透明な清潔な風を感じないのか」という箇所があります。

この「透明な清潔な風を感じる」というのは、霊性心の存在を感じることをあらわしているのではないかと思われます。

透明な風を感じて、自分のすべきことがわかったとき、それは霊魂が、宇宙の積極の風を感じているのです。

 

頭山満はまさに私利私欲のない意志の人でした。

困った人を見かければ、自分の全財産をあげてしまい、間違っていると思えば、警察や法律などの国家権力もお構いなしに行動を起こし、自分が所属している玄洋社民権派と国権派に分かれたときも、たった一人で孤立しようと自分の意志を通そうとしました。

頭山満にとって人数など問題ではなく、正しいかどうかだけが問題だったのです。

「おれは頭数の人間ではない、お前は頭数の人間か」と同志の箱田六輔に詰め寄り、自殺に追い込んでしまったといわれています。

玄洋社の社長だった箱田六輔は、頭山満が一度口にした信念は絶対に曲げないとわかっていたけど、自分が民権運動を共にしている全国の民権結社を裏切るわけにはいかなかったし、このまま玄洋社を分裂倒壊させることはできなかったので自刃を選んだのでしょう。

その後、頭山満は箱田六輔の親族の面倒をしっかりみたそうです。

 

意志を発生させるためには、心を掃除しておかなければなりません。

雑念や煩悩で頭の中が散らかっていると、意志はあらわれてきません。

心の中に霊魂という神が入る場所を空けておかなくてはなりません。

そのための修行が、座禅や瞑想です。

座禅するときに手を組みますが、それは仏の場所を作るためともいわれています。

 

無理に積極的になったとしても、それは長続きしません。

それは相対的な積極性であり、空元気と同じものです。

絶対的な積極性とは、そのような激しいものではなく、穏やかなものです。

例えるなら、絶対的な積極性は澄みきった水面であり、相対的な積極性は燃えさかる炎です。
雨が降ろうが、雪が降ろうが、雷が鳴ろうが、悠々とそびえたつ富士山のように、いつも変わらず構えているのが絶対的な積極性です。

 

自然は、自ずから然ると書きます。

自ずから然るとは、無為であり、嘘がないということです。

それは絶対的で、真実そのものです。
自然から生まれた人類も、本来は嘘がない存在のはずです。

意志は嘘がなく、自然なものです。

日本の神道とは、かんながらの道のことです。

かんながらとは、神の意志のままで人為の加わらない様子を意味します。

 

吉田松陰孟子の言葉である、「誠は天の道なり。誠を思うは人の道なり。至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」を自らの人生で貫き、三十歳という若さで命を落としました。

嘘のない誠実なことを、至誠といいます。

「嘘のない誠実な想いで心が動かされない人はいない、その想いは天に通じる」という言葉を信念にして、幕府の要人の暗殺計画を話し、処刑されてしまったのです。
吉田松陰は処刑される前に、「男子たるもの死すべきところはどこか」という門下生の高杉晋作の手紙を獄中で受け取り、「死して不朽の見込みあればいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあればいつでも生くべし」という返事を残しています。
「死ぬことが世のためになるならば、いつ死んでもいいし、生きて世のためにできることがあるなら死ぬべきではない」と自分の死によって決起に逸ることがないように、門下生たちを諌めたのです。

吉田松蔭は至誠を貫いて、処刑されることになりましたが、その死は門下生達の心を発憤させ、それが明治維新の大きな原動力になりました。


儒学者佐藤一斎の「言志四録」という作品に「聖人死に安ず。賢人死を分とす。常人死を畏る」という箇所があります。

聖人は死を安らかに受け入れ、賢人は死を当然のものとし、凡人は死を恐れるという意味です。
西郷隆盛は自らの死に場所を西南戦争と決め、現代のように技術や物質に傾き始めた明治政府を諌め、西南戦争を国内最後の内乱としました。

明治政府は欧米に追いつこうとして、文明を発展させることばかりにとらわれて、精神面が置き去りになっていました。

西郷隆盛は自らの死をもって、明治政府へ「道理を外れるな」というメッセージを送りました。
「もうここらでよか」と自分の命に執着することなく、命の使いどころを客観的に考えて、実際に自分の命を使ったのです。

積極的に人生を生きて自分の使命を全うし、次の世代に想いを繋いで死んでいくのは、素晴らしいの一言に尽きます。

 

おすすめ書籍

井川聡「頭山満伝 ただ一人で千万人に抗した男」

21. 万物の理

「一理に達すれば万法に通ず」
宮本武蔵五輪書

 

この世の万物は、目に見えない粒子が集まってできていて、その目に見えない粒子は一つの大きなエネルギーから生まれました。

だから、万物は同じ材料でつくられていて、共通の法則を持っています。

人間の体もその大きなエネルギーから生まれていていて、その心はエネルギーの動き自体になります。

私たちが何かを考えているとき、目に見えないエネルギーが動いているのです。

 

万物が同じ法則を持っているということは、何か一つのことを突き詰めれば、それを他のことに応用できるということです。

だから、自分が興味を持ったものを突き詰めれば、万物の理をうかがい知ることができます。

「好きこそものの上手なれ」ということわざがあるように、好奇心や情熱が一番の原動力となるので、興味を持ったものには、どんどん挑戦していきましょう。

そこから自分の中の世界を広げていけます。

 

私の趣味は音楽なのですが、音楽で学んだことは他のことにも役立っています。

例えば、作曲は執筆に応用できます。
作曲するときは、まず大まかにメロディーを作り、曲の構成や展開を考えて、デモ音源を録ります。

そして、スタジオでその曲を演奏しながら、手を加えていき、曲を仕上げていきます。

あらかた曲ができあがったら、ボーカルや楽器を録音して、その音を調節したり加工したり、納得がいくまで手を加えていきます。

細かいことにこだわりだしたら、切りがないので、ある程度のところで完成とします。


執筆は作曲の手順と似ていて、まずは思いつくままに文章を書いていきます。

次に文章の構成や展開を考え、下書きを完成させます。

そして、下書きをもとに文章を書いていき、作品を仕上げていきます。

作品ができあがったら、文章が読みやすくなるように修正を加えていき、納得できたところで完成となります。


ここでは作曲と執筆の共通性について話しましたが、万物は同じ法則を持っているので、違う角度から考えれば、一つのことは万物に当てはまるはずです。

スポーツを営業活動に役立てることも、テレビゲームを会社経営に役立てることもできます。

物事の核となるものを掴めば、他のことにいくらでも応用が利くのです。


人は必ず誰かの影響を受けています。

芸術家はこれまでの芸術家に影響を受けているだろうし、科学者はこれまでの科学者に影響を受けているでしょう。

なので、自分が興味を持った人のルーツを辿っていけば、自分の中の世界をさらに広げていくことができます。

そして、誰かのルーツを辿っているうちに、自分が本当に好きなものがわかってくると思います。

そうすれば、自分の個性を知ることができるので、今度はその個性を伸ばしていきましょう。

好奇心や情熱が尽きないかぎり、人はどこまでも成長していくことができます。

 

宇宙に果てがないように、人の心の世界にも果てがありません。

自分が学んだことや経験したことを結びつけて、世界を広げていきましょう。

点は線となり、線は平面となり、平面は立体となります。

すると、心の中で対立し合うもの同士がアウフヘーベンを起こして、一つ高い次元のものが生まれるかもしれません。

それは、宇宙における進化と同じ法則で起こります。

積極的な精神を持っていれば、心は宇宙のようにどこまでも進歩向上を続けていきます。


宇宙について考えることができる生物は、人類だけです。

他の動物は、目に見える物体のことしか考えられません。

もし、人間の心が宇宙よりも小さかったら、人間は宇宙について考えることはできないはずです。

だから人間の心の中には、宇宙を入れることができるのです。

人間の心は、限りなくゼロに近い粒子の動きであり、その世界は無限大なのです。


宇宙の態度は常に積極的です。

植物が太陽に向かって伸びていくように、宇宙は進化と向上を続けていきます。

だから、人間も宇宙と同じ心を持っていれば、どんなときも向上していけるはずです。

宇宙の心は真、善、美で、嘘をつかず、差別せず平等で、調和がとれた心です。

人間が真善美の心を持って宇宙霊と同調すれば、宇宙の創造の力を使うことができます。

その力によって、人類は一昔前では考えられないほど、さまざまなものを発明して、文明を発達させました。

そのようにして、人類は進歩を続けてきたのです。

消極的になって、自分に与えられた力を使わなければ、宝の持ち腐れになります。

 

信念や理想を持って生きないと、本能心によって、人間はすぐに堕落していきます。

でも、信念や理想を持ち続けるのは容易ではありません。

堕落しないためには、この世界の理を学んで、土台となる心をしっかりと作ることが重要です。

しかし、学校で学ぶような職業的な教育だけではその土台はできないので、各々が自分で学んでいく必要があります。

 

歴史を振り返ってみると、人類は何度も同じことを繰り返していることがわかります。

人は集団を作り、階級や制度を作り、国を作ります。

そして、権力を手に入れたものは傲慢になり、自分の地位を守ることを考えます。
国の中枢にいる人物が保身に走ると、国は退廃していきます。

すると、現体制に不満を持つ人々が反乱を起こして、季節が冬から春に変わるように、古い国が壊されて、新しい国が作られます。

このように、人類の歴史は四季のように、成長する時期、慢心する時期、堕落する時期、再生する時期を繰り返しているのです。

人間とは、権力を持つと堕落してしまう生き物なのです。

だから、見識がある人は高い地位に就くことを嫌いました。

安岡正篤も、中村天風も、頭山満も、周りに勧められても政治家にはなりませんでした。

秦の始皇帝も、漢の高祖劉邦も、天下統一を果たした豊臣秀吉も、この世を去るときは英雄と呼べるような状態ではありませんでした。

 

人類は同じことを繰り返して、精神面は進歩していないようですが、物質面は着実に進歩を遂げています。

素手で戦っていたのが、刀が使われるようになり、今ではミサイルや爆弾が使われるようになりました。

自分の手を汚すことなく、ボタン一つで大量の人間を殺すことができるようになったのです。
そして、文明の発達と共に、自然破壊も進行しています。

宇宙開発やインターネット、先進医療、遺伝子工学など、数十年前には想像もできなかった世界が、スピードを緩めることなく広がり続けています。

数十年後、地球は一体どうなっているのでしょうか。


今現在求められていることは、科学を発展させることではなく、地球の未来について考えることです。

地球が滅びれば、当然人類も滅びます。

仮に人類が、他の惑星に移住できたとしても、また同じことを繰り返すだけでしょう。
自分たちがしてきたことを振り返る暇もないほど、猛スピードで、文明は発展を続けています。

文明が発展するにつれて、構築されていったシステムが、私たちの常識を歪めているのです。

 

今、地球と人類は大きな岐路に立たされています。
「人類が地球を救う」と自主的に考えて、行動することが求められています。
手遅れになる前に、もう一度地球の未来について考えてみましょう。

20. 無と空

「自分だけ大事にしようとすると、怒りや悲しみがわいてくるのです」

釈迦

 

無から宇宙が誕生したように、無とは完全なゼロではなく、有に変わる可能性を秘めています。

この世界に完全なる無というものは存在しません。

無は一見するとゼロのようですが、プラスとマイナスが相殺し合って、ゼロにみえているだけで、そこには必ずエネルギーが存在しています。

 

西遊記に登場する玄奘三蔵が訳したとされる仏教の経典である般若心経の一説に、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」という箇所があります。

色とは目に見えるものを意味します。

訳すと「目に見えるものは空であり、空は目に見えるものに他ならない。目に見えるものと空は別々のものではなく、空とは目に見えるものである」となります。
ここでいう空とは実体のないことで、気やエネルギーのことをあらわします。


化学的にみれば、人間は目に見えない素粒子の集まりですが、目に見える物体として存在しています。

そして、一人の人間が死んだ後も、そのエネルギーは永遠に消えることはなく、新たな生命へと繋がっていきます。

有と無は繋がっていて、その区切りは曖昧なものです。

宇宙のできる前を無というのか、それとも目に見えないことを無というのか、それとも人間が死んで意識がなくなることを無というのか。

このうちのどれもが、エネルギーは存在しています。

こう考えると、無など存在しないという矛盾が生まれてしまいます。

 

仏教では、この世界の中で常にあって変化せず、主体的に存在するものを我といい、そんなものは存在しないと考えることを無我といいます。

また、すべてのものは因縁によって生じたもので、永遠不滅の実体は存在しないということを諸法無我といいます。

そして、すべては空であって、永遠に変化しないものはないということを諸行無常といいます。

すべてのものは、移り変わり、生まれては消えるを繰り返していて、一瞬いえども存在は同じままではいられないのです。

 

喜びの後に憂いがあり、憂いの後に喜びがあるように、すべての物事は必ず相対するものを持っています。

無がなければ有はないし、死がなければ生もありません。

失敗がなければ成功もなく、不幸がなければ幸福もありません。

物事は比較するものがあって、はじめて意味を持ちます。

すべての物事には陰と陽の一面があり、分けることなどできないのです。

 

頭の中を空にすれば、心に宇宙のエネルギーが満たされていきます。

自我を消して無念無想になると、心は自ずと本心に戻っていきます。

多忙な日々に追われて、自分と向き合うことをしなくなると、人は自分の本来の心を見失ってしまいます。

平気で嘘をついて、へこひいきをして、困ってる人を見て見ぬふりをする。

そんな風にはなっていませんか。

嘘をつかず、差別せず、困ってる人がいれば助けてあげる。

それが人間の持つ本来の心です。


現代は娯楽や情報があふれていて、頭の中を空にする時間が無くなってしまいました。

ほんの数分間でも瞑想すれば、心はぐんぐん元気を取り戻していきます。

雑念を決して、本心に戻ることができれば、自分の中に眠っている潜勢力を発揮することができます。

人間の本心とは霊性心のことであり、尊く、清く、正しく、強く、喜びと感謝にあふれたものです。

しかし、理性や本能がそれを覆い隠してしまっています。

赤ん坊は、まだ自我が発達していないので、心の底から無邪気に笑ったり、泣いたりします。

 

今までのことを振り返ってみてください。

いかに自分が本能と理性に支配されてきたかがわかると思います。

怒りや不安、恐怖、後悔、憎しみ、嫉妬などの消去的な感情を心に浮かべ、生活を送っていなかったでしょうか。

それでは、主人であるはずの霊魂が心と体に振り回されることになり、心と体の奴隷のように生きていることになります。

人間の本質は霊魂なので、心や体に主導権を渡してはいけません。

消去的なことを考えていないか、常に確認する習慣をつけて、気づいたらすぐに消しましょう。
日頃から、心を空にする時間を取るようにしましよう。

それは自分と向かい合う時間にもなります。

 

地球を一つの生命体とみれば、自分と他人の区別はありません。

そうなれば、転んだときに手で体を庇うように、当たり前のように他人を助けるはずです。

自分に見返りを求める人はいませんよね。

自分への執着をなくせば、他人を助けても見返りを求めることはなくなり、人を助けた喜びを感じるだけになります。

そうなるのは難しいことですが、すべての人がそうなるよう努力すれば、もっと暮らしやすい社会になると思います、


自分への執着を捨て、無我になることができれば、宇宙が陰陽相対(待)性原理に基づいた最適なバランスを保ってくれます。

そう努めることが、自分を含めた生命全体を救うことに繋がっていくのです。

 

釈迦は苦しみから解脱するステップを、四諦として四つに分けて説明しています。

この世の一切は苦しみであると認識する苦諦。

苦しみの原因は自我にあると気づく集諦。

自我をなくせば、苦しみはなくなると悟る滅諦。

自我をなくすために道を実践していく道諦。

自我というのは、本能と理性から生まれる雑念や妄想のことです。

道諦で実践していく道を八正道といい、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定があります。

正しく物事を見て、正しく考え、正しく語り、正しく行い、正しく生活し、正しく励み、正しく意識を持ち、正しく心を定めることを意味していて、これらを実践していくことが、偏りすぎることなく生きていく中道に繋がっていきます。

 

仏教で一切皆苦というように、人生には苦しみがつきものです。

幸福な人生とは、苦しみのない人生ではなく、苦しみを喜びに変えることができる人生のことをいいます。

幸福な人生といわれて、苦しみのない楽しいだけの人生を思い浮かべることは間違いなのです。

苦しみを喜びに振り替えられるように、心を空にして霊性心を発揮するよう努めましょう。

19. 陰陽相対(待)性原理

「すべての有限なものは、内在的な矛盾と自己否定を通して自分自身を止揚するものである」

ヘーゲル

 

儒教経書の一つである「易経」を参考に、宇宙の成り立ちについて考えてみましょう。


宇宙が始まる前は、プラスとマイナスのエネルギーが相殺し合っている無の状態でした。

あるときそのバランスが崩れ、莫大なエネルギーが発生し、それが膨張していって、現在の宇宙が誕生しました。
易経では、万物の根源の気のことを太極と呼びます。

この太極が宇宙の始まりとなったエネルギーのことであり、宇宙霊のことになります。


太極からは陰陽二つの気が生まれ、その二つの気のことを両儀といいます。
陽の気は分化発展の力を持ち、ものを創造します。

植物でいえば、花を咲かせたり、枝を伸ばす力であり、人間でいえば、困難に向かって進んでいく力になります。
陰の気は統一含蓄の力を持ち、エネルギーを蓄えます。

植物でいえば、根を張り、幹を太くする力で、人間でいえば、相手を許し受け入れる力になります。
陰陽二つの気により、造化が行われます。

 

陰陽のバランスが崩れると、物事は破綻していきます。

人間にとっては活動することが陽、休むことが陰になるので、どちらも生きるために不可欠なものです。

活動ばかりで休息をとらなければ、体を壊してしまうし、休息ばかりでは何も生み出せません。

 

古来、男性は陽、女性は陰とされてきました。

原始時代においては、狩などの力仕事をする男性が陽であり、子を産んで家庭を守る女性が陰でした。

かつてはそれで、陰陽のバランスがうまく取れていたのですが、現代になって文明が発達したことにより、物理的な強さが社会であまり必要とされなくなったため、男女の陰陽のバランスが崩れてしまいました。
一つのことに集中することが得意な男性よりも、同時に複数のことを処理できる女性の方が、現代社会に適合しているかもしれません。

 

本来、陰と陽は等価値であって優劣はなく、コインの裏表のように二つ合わせて一つのものです。

黒と白の勾玉が重なり合った陰陽太極図は、太極の中に陰陽が同居する様子があらわされています。

右側の黒が陰の下降する力をあらわし、左側の白が陽の上昇する力をあらわしています。

物質を重んじる現代では、陽の方が優れたものとして扱われる傾向があり、人は質素で心穏やかな生活より、裕福で刺激的な生活を求めます。

心の平穏のような精神的なものより、お金や財産のような物質的なものを重要性するのです。

陰と陽は、晴れと雨のような関係なので、どちらが不足してもいけません。

頑張って働いてお金持ちになっても、心が幸せを感じていなかったら何の意味もありません。

 

陰陽は更に四つに分けることができ、それを四象と呼びます。

四象は四季に例えられ、陽の力が増していく春にあたる少陽、陽のエネルギーが盛んな夏にあたる老陽、陰の力が増していく秋にあたる少陰、陰の力が盛んな冬にあたる老陰があります。
盛者必衰といいますが、すべての物事には四季があり、陽極まれば陰に転じ、陰極まれば陽に転じます。

干支の十干と地支も、陽から陰への移り変わりをあらわしたものです。


自然に四季があるように、人生にも四季があり、家庭や企業、国にも四季があります。
成長期にあたる春、活動的になる夏、成熟した秋、次の春への準備をする冬。

日本で例えるなら、江戸時代後期の幕府が退廃していた時期が冬で、明治維新が起こった時が春、日清日露戦争の時期が夏、軍部が暴走しだした時が秋、第二次世界大戦の敗戦が冬、前後の経済成長期が春、戦後裕福になった時期が夏、景気が低迷し、人口が減少している現在が秋といえるかもしれません。

季節のように同じ周期ではありませんが、春夏秋冬の順で繰り返されていることがわかります。

どの季節にもすべきことがあり、道から外れてしまうと、破滅に向かうことになります。

自分に余裕があるうちに、冬を乗り越える準備をしておくことが大切です。

 

四季は、吉凶悔吝(きっきょうかいりん)に対応しています。

吉(良い時期)のあとに、吝(慢心する時期)がやってきて、いずれ凶(悪い時期)になります。

そのあと悔(後悔する時期)がやってきて、また吉がやってきます。

吝と悔は自分を改める時期であり、吝は凶の兆しであり、悔は吉の兆しになります。

この吝と悔の時期に、道から外れないことが大事です。

謙虚さを失って、傲慢な心を持ち続けていれば、いずれその身は破滅してしまいます。

逆に、悪い時期に落ち込み続けていれば、精神は病んでいってしまいます。

易の一つ目である乾為天には、陽の勢いのままに登り続けてる龍が書かれています。

しかし、最後の上爻では、龍が昇りすぎたことを後悔している様子が書かれています。

また、下経の沢水困から水風井、沢火革の流れは、悪い時期に落ち込んでいき、そこから革まる(あらたまる)までの流れが書かれています。

良い時期に、心がおごっていると感じたら、謙虚になるよう努めましょう。

また悪い時期には、いつまでも落ち込んでいないで、心が前向きになるよう努めましょう。

 

幸福のあとには不幸が訪れるし、不幸のあとには必ず幸福が訪れます。

なので、永遠に続く幸福も不幸もありません。

だから、うまくいかないときは、心配しすぎないようにして、道から外れないよう気をつけましょう。

悪い時期は、これまでを振り返り、自分を更生するチャンスの時ととらえましょう。

道とは、万物の理を実践していくことです。

なので、道から外れることは真理から外れることをあらわしています。

 

四象は季節のように巡っていくものであり、生と死もその中の一つの過程になります。
四象はさらに八卦に枝分かれし、八卦の組み合わせで六十四卦ができます。

その六十四卦を解説しているのが易経です。

易経を読めば、物事がどう移り変わっていくのかを学ぶことができます。

また、易のサイトやアプリがあるので、毎日一つ読んでいくだけでも、多くのことを学べると思います。

易経は占いではなく、道を外れないためにどうするべきか学ぶものと思って読みましょう。

 

陰陽の概念は、物事のバランスを考える上で役立ってくれます。

バランスが失われて、偏りが生じると、いずれその物事は破綻していきます。

偏った食生活を続けると、健康を損なって、病になるのと同じです。

矛盾対立する二つの要素から、両方から優れたところを採り入れて、高い段階へと持っていくことを、ドイツの哲学者ヘーゲル止揚アウフヘーベン)と呼びました。

例えば、東洋と西洋の考え方を混ぜ合わせて、それぞれの優れたところを残し、不要な部分を捨てるれば、和洋折衷の新たな考え方が生まれるかもしれません。


東洋では、矛盾対立を統一して、高い次元へ進歩向上する働きを中といいます。

ここでいう中は、中間や真ん中という意味ではありません。

片寄りがなく、調和が取れていることをあらわします。

儒教経書の一つである「中庸」には、中を平常から用いることが書かれています。
釈迦は対立し合うものがあれば、極端に偏ることを避けるよう説きました。

苦行からも快楽からも離れることで、釈迦は悟りに到達することができたのです。

偏らずに、バランス良く生きることを中道といいます。

中道は真理と共にあり、そこから外れたとき、物事は破綻を始めるのです。

 

地球に生命が存在するのは、天体が絶妙なバランスで配置されているからでした。

物事にはバランスが重要です。
何かの判断に迷ったときは、中や陰陽の概念を思い出しましょう。
カクテルを作るシェイカーのように、二つの相反するものを一緒に頭の中に入れてしまい、それらを混ぜ合わせてください。

そして、すぐに答えを出そうとするのではなく、いったん時を置いて待ってみましょう。

すると、単純に二つのものを平均しただけでなく、それぞれの優れたところを抽出した、一つ高い次元にあるものが生まれているかもしれません。
中や止揚は、宇宙における進化の原理になっています。

 

人の個性とは、何を選択するかで決まります。

陰陽を混ぜ合わせたあと、そこから何を選び取るかはその人の自由であり、その選んだ結果が、その人の個性となります。

本来、その選択に優劣はありません。

しかし、時代に合った選択というものは存在していて、現代の資本主義社会では、効率的な選択が望まれています。


西洋の分化発展的な思想は陽の要素が強く、東洋の統一含蓄的な思想は陰の要素が強いです。

現代人の思考は陽に傾きすぎていて、自分の内面を育てることよりも、外面の技術的な力を伸ばすことばかり考えています。

このままでは、文明が発展しても、人類はさらに自然から遠ざかることになってしまうでしょう。

宇宙の理に反したとき、人類は破滅へと向かっていくのです。


陽は陰に対立して、反発しますが、陰は陽を受容しようと待っています。

休息が活動の終了を待っているように、陰は陽を受け入れようと待ち構えているのです。

陰と陽は相待ち相対することで、陰陽相対(待)性原理という宇宙のルールをつくっています。


仕事の質を上げるか、仕事の量を増やすか、どちらを優先すべきか迷ったとき、止揚を思い出せば、どちらも満たす新たな選択肢がみつかるかもしれません。
答えが出ないとき、さまざまな要素を頭の中に入れて、時間を置いてみれば、陰陽相対(待)性原理によって、まったく新しい答えが生まれるかもしれません。

人生において、うまくいかない冬の時期は必ずやってきます。

しかし、悪い時期は人間が成長するために必要で、自分を見直すきっかけになってくれます。

良い時期は慢心しないように気をつけ、悪い時期は落ち込みすぎないようにしましょう。

成功も失敗も、どちらも同じだけ価値がある大切なものなのです。

 

おすすめ書籍

安岡 正篤「易経講座」