照心洗心録

安岡正篤、中村天風などから学んだことをまとめています。

18.西洋と東洋

「西洋は物事を細分化し、分析し、因果律を見出そうとする。一方、東洋では物事を総合的かつ統合的に、様々なものを含蓄しようとする」

安岡正篤

 

西洋と東洋にはそれぞれ特徴があり、物事の考え方についても違いがあります。

西洋は分化発展的で、外にベクトルが向く傾向が強く、逆に東洋は統一含蓄的で、内にベクトルが向く傾向が強くなります。

西洋は寒くて、環境的に厳しい地域が多く、生きるのが困難だったため、自然を克服しようとして、早くから技術面が発達しました。

西洋に比べ、東洋は暖かく恵まれた環境が多かったので、心の内面に関心が向けられ、早くから思想面が発達しました。

 

次に、東西の宗教観を比べてみましょう。

世界の創造主のことを、西洋ではゴッドと呼び、東洋では天と呼びます。

ゴッドとは、創造主が擬人化されたものあらわすので、西洋は物事の基準を人に置いていることがわかります。

一方、天とは、創造主を自然の延長上に見出したものなので、東洋は物事の基準を自然に置いていることがわかります。

 

人は死んだら天国や地獄へ行くといわれますが、これは人の霊魂が形を保っていられなくなって、宇宙霊に還ることのたとえと考えられます。

創造主の考え方に違いはありますが、この点では西洋と東洋は似たような考え方をしているようです。
生命の生まれ変わりである輪廻についても、洋の東西を問わず信じられています。

科学的に考えても、エネルギーは循環するので、生命の死は、新たな生命へと繋がっていると考えることができます。

 

キリスト教では、自分の侵した罪を許してもらうため神に祈ります。

仏教では、苦しみの原因である煩悩を消すために、坐禅を組んで瞑想します。

一見まったく違うことをしているようにみえますが、どちらも苦しみから逃れるために、精神を統一して、心を安定させようとしていることがわかります。

古くから、雑念を消すことが、精神に良い影響をもたらすとわかっていたのでしょう。


キリスト教では、人間は神に似せて造られたと考えられています。

また東洋では、人間は自然の一部だと考えられています。

なのでどちらでも、人間は造物主の延長上の存在として考えられているようです。

東洋では、天を自然の延長上の存在として認識しているので、人間は天の一部であると考えることができます。

かつて日本では、万物に神が宿っていると考えられていました。

人間を含む万物が天の一部であり、その中に神が宿っていると考えられていたのです。

 

現代に伝えられている宗教は、聖人の弟子たちが教えを後世へ伝えるために、文字によって記録されてきたものです。

それが何代にも渡って伝わることで、いつしか聖書や経典が誕生しました。

苦しみから逃れて、心を安定させるための教えであるという点は同じだったのに、時代が経つにつれ、それぞれの宗教は、似ても似つかないものとなってしまいました。

未知への恐怖心や、他の宗派への競争心によって、宗教は教えの内容よりも、儀式などの形式が重んじられるようになってしまったのです。


キリストも釈迦も孔子も、私利私欲をなくして、謙虚に生きることを説いていました。

これは言い換えれば、不要な本能心を消して、霊性心をなるべく発揮して生きるということになります。
キリストは隣人愛を説き、釈迦は自我を捨てるよう説き、孔子は公のために生きるよう説きました。

これらはすべて「自分という殻を捨てる」と言い換えることができます。

自我の殻を作ってしまうと、自分に対するこだわりが生まれ、それが苦しみとなってしまうのです。

その殻を捨てて、無我になることができれば、苦しみは消え、心に平穏が訪れます。
それを仏教では涅槃に至るといい、儒教ではそのような人を聖人と呼びます。

すべての苦しみの原因は、知らぬ間に作り上げた自我の殻にとらわれてしまうことなのです。

 

現代の世界では、自然を征服する対象として考える西洋の考え方が主流となっています。

その理由は、自然と共に生きるという東洋の考え方よりも、便利で快適な生活ができるからです。

またいざ戦争になれば、東洋的な考え方では、西洋的な考え方に太刀打ちできません。

歴史とは、勝者の目線から語られたものであり、敗者は勝者に従わなくてはなりません。

 

いくら文明が進歩しても、戦争が起これば、人間の世界は弱肉強食になります。

丸腰の状態で拳銃を突きつけられれば、相手の言うことを聞かざるをえません。

原始時代のように「強者こそ正義」という考えでは、科学兵器が次々と開発されていくことになります。

それでは、地球の自然が破壊されていき、終いには人類が地球に住めなくなってしまうかもしれません。

現代は、西洋的な考え方に偏っているので、東洋的な考え方を取り入れて、 自然と共に生きることを学ばなければなりません。

 

日本の神社は、山の中や麓にあることが多いのですが、それは日本人が自然そのものを神と考えていたからです。

四季折々の美しい景色を鑑賞できる日本では、自然は感謝の対象でした。

木造建築やイグサで作られた畳、陶器の茶碗などからわかるように、日本文化は日常的に自然と触れ合うようできています。


西洋は東洋に比べて、過酷な環境だったため、自然は感謝する対象ではなく、克服する対象でした。

文明を発達させ、自然を征服することで、人間中心の社会をつくっていきました。

石や土、砂などを加工して住居を造り、自然と居住スペースを切り離して生活をしました。

科学技術が発達することによって、現代ではいかなる環境でも暮らしていけるようになりました。

今の地球は、かつての西洋人が目指した世界になっているということができます。

 

西洋人は自我の意識が明瞭であり、個人主義なので、権利の観念が自ずと明確になります。

しかしそれでは、衝突が起こるので、社会生活を行うために、協力体制が作られ、義務の自覚が明らかになりました。

なので、西洋は構成的であり、理性的であり、論理的になります。

 

東洋人は、西洋人よりも没我的であり、大いなる尊いものに憧れを持ち、その理想の中に自分を没入し、そこに自分を発見します。

だから、家や国のために容易に命を捨てて、尽くすことができるのです

これは誤れば、偶像礼拝的になってしまいますが、上手くいけば理想的になり、理性よりも情緒が発達します。

なので、東洋は没我的であり、情緒的であり、感情的なのです。

 

おすすめ書籍

安岡正篤「活眼活学」

17. 宗教と科学

「宗教と道徳というものを、截然と何か二物にごとく分ける考え方が普及しました。両者は一体のものです。ただ表現、現れ方が違うだけです」

安岡正篤

 

新興宗教団体の詐欺事件がニュースなどで報道されているので、宗教というと怪しくて胡散臭いイメージがあるかもしれません。

しかし宗教とは、本来の意味は大本の教えであり、道徳と並び人間教育に不可欠なものです。

人間の本質である霊魂は、宇宙の造化と共に向上していこうとする性質があります。

なので、人間は霊性心が発揮されていると、自然と自分よりも大きな存在に憧れ、それを尊敬するようになり、また小さな自分を恥じるようになります。

その敬する心によって進歩向上していき、恥ずる心で自らを律していくのです。

そして、敬する心が発展することで宗教が生まれ、恥ずる心が発展することで道徳が生まれました。

宗教と道徳は、 心に理想を持っていることで生じる、霊性心のあらわれといえます。

尊敬することや恥じることは、人間が他の動物とは違う、徳の根本にあたるものなのです。

 

新興宗教は、伝統的な宗教とは異なる信仰対象や教義を持っており、本来の宗教とはまったくの別物になります。

新興宗教にはお金の絡んだ事件がつきもので、目では見えない存在を信じ込ませることで、神社からお金をむしり取っていきます。

 

人類が文明を築いてから、長い年月が経ちました。

その間、数えきれない人々が深い思考をしてきたに違いありません。

それなのに、学問の根本にあたる宗教が、現代になって興ることがでしょうか。

枝葉にあたる科学的な発見は、これからも続いていくでしょう。

しかし、新たな宗教が生まれるとは思えません。

 

もしも、未だに発見されていない偉大な教えが、現代になって発見されたとしても、それを世の中に広めようとするとき、金儲けに利用するでしょうか。

釈迦も孔子もキリストも自分の教えを広げるために、金儲けなどは考えず、質素な暮らしをしながら各地へ旅をしました。

 

釈迦や孔子老子はほぼ同じ時期に生まれているようなので、東洋の宗教の始まりはこの時期にあたると考えられます。

その後は、そのときに生まれた宗教が発展しているだけにすぎません。
だから、もし現代に新たな宗教が生まれるとすれば、それは既にある宗教を発展させたものに違いありません。

それなのに、伝統的な宗教とかけ離れた教義を持つ信仰宗教は、宗教とは呼べるものではないのではないでしょうか。

新たな色は、それまでにあった色を混ぜ合わせることによって生まれるのであって、他のどの色とも異なった真新しい色が生まれることはありません。

 

宗教は世界中のさまざまな地域で生まれ、それぞれが独特の発展を続けてきました。

東洋にはヨガやヒンドゥー教、仏教、儒教道教などがあり、西洋や中東にはユダヤ教キリスト教イスラム教などがあります。
日本には神道があります。

新渡戸稲造は、西洋のキリスト教に変わるものとして武士道を挙げました。

 

植物は、力を蓄える根幹と、力を発現していく枝葉に大きく分けることができます。

宗教や道徳は、植物でいう根幹にあたります。

根幹がしっかりしていないと、植物は大きく成長することができないように、人間も宗教や道徳によって、精神の土台がしっかりしていないと、人間性がきちんと成長していかないのです。

科学は枝葉の学問なので、根幹である宗教や道徳の上に成り立つものです。

宗教や道徳なき科学は、核爆弾などの非人道的な兵器を生み出してしまうかもしれないのです。

 

宗教によって教義は違いますが、多面的に考えてみると、根本的には一つの真理を違う言葉で説明していることがわかります。

同じことを説明するにしても、考える角度が違えば、まったく異なる説明になってしまうのです。

また、 言葉はただの記号なので、世代を超えて伝わるうちに、どうしても解釈違いが起こります。

後世の人々が、それぞれの解釈で宗教を発展させていったので、解釈違いが起こり、争いにまで発展してしまいました。

一つの宗教が枝分かれして、さまざまな宗派が生まれると、始まりは同じ宗教同士であっても、争いが起きてしまったのです。

宗教戦争がまさにそうで、もしキリストが宗教戦争を見たらさぞ落胆することでしょう。

 

宗教というと、儀式的なものや形而上のものがまず頭に浮かぶかもしれません。

しかし、本来の宗教とは偏りなく生きることや理想を持って生きることなど、人生の土台となる教えを学ぶものなのです。

新興宗教団体などの犯罪組織を想像してしまうと、先入観で受け付けなくなってしまうので、根本をみるようにしましょう。

 

おすすめ書籍

安岡正篤「『人間』としての生き方 現代語訳『東洋倫理概論』を読む」

16.真実の世界

「本当にこの世に実在するのはイデアであって、我々が肉体的に感覚する対象や世界とはあくまでイデアの似像にすぎない」

プラトン

 

私たちが認識している世界は、果たして正確なのでしょうか。
人間がこの世界を認識できるのは、心の働きのおかげであり、目や耳などの感覚器官が、何かを感じることによって、この世界を認識しています。

しかし、人間が視覚や触覚などで物理的に認識している世界以外にも、精神の世界やエネルギーの世界があります。

人間と関係がある三つの世界について考えてみましょう。

 

一つ目の物質の世界は、五感によって感じられる物理的な世界です。

人間の五感によってつくられるので、それぞれの個人によるフィルターがかかっています。

視力が悪ければ、景色の見え方が変わるように、 脳が勝手に何かを足したり引いたりして、補っています。

なので、私たちは現実そのままを認識しているわけではないのです。

 

 

二つ目は 心の働きによって生じる精神の世界です。
心の働きで生じるので、他人のものをみることはできません。

自分が認識している精神の世界は、実際の精神そのままを認識しているわけではなく、物質の世界と同じで、思い込みなどによって捏造されています。

例えば、自分の精神の頑丈さを高く見積もっていると、耐えられると思っている出来事にも耐えることができません。

自分の精神の世界であっても、主観というフィルターがかかってしまい、 正確に理解することは難しいのです。

誰もが主観で自分の心をとらえているので、客観性のない部分を持っています。

 

三つ目はエネルギーの世界で、人間が五感では認識できない世界になります。

五感では感じることのできない、霊性心や虫の知らせなどの直感を人間が認識することができるのは、何らかのエネルギーを心が感じとっているからです。

オーラが見えるという人や、テレパシーができるという人は、本当かどうかは置いておいて、目や耳では認識できないはずのものを、心が感じとっていることになります。

いわゆる第六感といわれる知覚能力のことになりますが、これも人の心が感じとっている以上、主観が入ってしまうので、実際のエネルギーの世界を感じとっているとは限りません。

 

真実の物理的な世界、精神世界、エネルギーの世界があり、それらを人の心がとらえると、フィルターのかかった三つの世界がつくられます。

このフィルターのかかった世界は、実際の世界とは乖離しているので、人間はありのままの世界を認識しているわけではないと理解しておきましょう。

 

視覚でとらえる世界について考えてみましょう。
私たちが視覚で認識している色は、 跳ね返ってきた光の色であり、その物自体の色を認識しているわけではありません。

光がなければ色は認識できないし、赤い光を当てれば、イチゴもレモンも赤色に見えます。

物自体に色がついているわけではないのです。

 

人間の視覚は信頼のおけるものではなく、 脳が間違って認識すれば、実物よりも大きく見えたり、近くに見えたりすることがあります。

例えば、トリックアートは人間の目の錯覚を利用したアート作品です。

平面に描いた絵が立体に見えたりします。

また、人間は感情を視界に反映してしまうことがあり、精神状態が不安定だと、自分の苦手な物を作り出してしまうことがあります。

例えば、ほこりや壁の汚れが虫に見えることがあるのです。

また、脳は無意識のうちに視界を作り出してしまうこともあります。

緑内障が進行すると視野が欠けてくるのですが、脳が勝手にその欠損部分を補ってしまうので、自覚症状に乏しいそうです。

 

色を感知する細胞に異常があれば、見える世界の色合いは他の人と違ってきます。

また、動物によって見えている世界はまったく違うそうです。


精神疾患である統合失調症になると、幻覚を見ることがあります。

そのとき、脳は実際に何かを認識しているので、幻覚を見ている人は、何かが見える気がするのではなく、実際に何かを見ているのです。

このことからも、人間の見ている世界は絶対的ではなく、相対的であることがわかります。

 

普段聴いている音は、脳が無意識のうちに調節していて、聴きたい音は大きく、不要な音は小さくなっています。

聴覚に異常があると、音の調節が上手くできなくなり、聴きたい音が雑音で聞きづらくなってしまうそうです。
また、目隠しをした状態で、常温の鉄を高温の鉄だと言われて皮膚に押し付けられると、脳が勘違いして火傷をしてしまうことがあるそうです。

シャワーを浴びているときに、熱い給湯器を冷たく感じるなど、熱い物を冷たく感じたような経験はありませんか。

これは、皮膚の温覚と冷覚が間違って働いたことによって起こります。

これらのことからわかるように、人間の五感で感じるものは相対的であり、絶対的ではないのです。

アインシュタインが発見したように、時間や空間でさえ相対的であり、大きな質量を持つ物体の周りは空間がねじ曲がって、時間が伸びるそうです。


この世界に存在しているものは、分解していけば、電子や陽子、中性子などの粒子になります。

さらに分解していけば、素粒子となります。

もし、人間が真実の世界を観測できるなら、視界のすべては粒子に見えて、その濃淡を感じるだけになるのではないでしょうか。

それらの粒子がさまざまに形を変えたり、振動することによりエネルギーを生み出します。

そして、この宇宙におけるエネルギーの総量は一定です。

宇宙の始まりのエネルギーが形を変えているだけなのです。
例えば、紙に火をつけて燃やすと、紙が消えてなくなるように見えますが、紙に酸素がくっつくことで、二酸化炭素と水と灰になっただけで、質量は変わっていません。

もとから全てはこの世にあって、その形を変えているだけなのです。
人間の一生も、大きなエネルギーの一部が形を変えているだけなのです。


私たちが認識している世界は、正確なものではないので、それについて悩むことは無駄なことかもしれません。

他人の心も、自分の心さえも、確かなものではありません。

不確かなものに振り回される必要はないのです。

 

霊性心を感じることは、 宇宙霊の一部である霊魂を感じることであり、それは宇宙の始まりの気を感じることです。

そして、そのエネルギーは、生まれることも消えることもなく、汚れることも清められることもなく、増えることも減ることもない不変の存在です。 

その一部である霊魂も不変の存在なので、決してぶれることがありません。

だから迷ったときは、自分の中にある霊魂を頼りにすれば良いのであり、安易に他に力を求める必要はないのです。

15.霊性心

「天の道は利して害せず、聖人の道は為して争わず」

老子

 

心の役割を理解するうえで重要なのが、本能心、理性心、霊性心の関係性です。

精神世界の本能心、理性心、霊性心が、それぞれ現実世界の体、心、霊魂に対応しています。

普段、意識の上に現れているのは本能心か理性心になります。

本能心や理性心が働いていると、霊性心は発揮されないので、その存在を感じることは容易ではありません。

では、霊性心を発揮させるためには、どうすれば良いのでしょうか。

その答えは、何も考えずに頭を空っぽにすれば良いのです。

言うのは簡単ですが、イライラしたり、妄想したり、悩んだりしていると霊性心は現れません。

そのため、 仏教徒たちは厳しい修行をして、 何も考えず、何も想像しないを無念無想の境地を目指します。

坐禅を組んで瞑想を行うことで、雑念や妄想を消していくのです。

そして心が、空を映す波一つ立たない湖の水面のようになったとき、自分という個の感覚は消えて霊性心が現れ、霊魂が宇宙霊と同調します。

すると、宇宙霊のエネルギーが霊魂に流れ込んでくるのです。

 

人間の霊魂が宇宙霊の一部であるように、霊性心は宇宙全体の心の一部です。

宇宙霊は万物を育み、分け隔てなく進歩向上させます。

だから霊性心も、差別や区別などなく、全体が良くなっていくように働きます。

自分のためではなく、公のために何かを成し遂げようとする意志や、危険や困難を恐れずに進むべき道を前進していく勇気は、本能心や理性心からではなく、霊性心から生まれます。

人類が万物の霊長といわれるのは、万物を進歩向上させていく霊性心を発揮することができるからです。

霊性心を発揮するためには、本能心を抑えなければならないので、理性心は本能心を制御するために生まれたのかもしれません。


日常生活の中でも、霊性心は実は現れています。

犬や猫などの可愛らしい動物を見たとき、考えるより先に微笑んでいることはないでしょうか。

また、転んでしまいそうな子どもを見つけたら、無意識のうちに体が動いていないでしょうか。

このように、本能や理性で考えるよりも先に行動しているとき、霊性心が発揮されています。

生死をさまようほどの壮絶な体験をすると、霊感を宿すことがあるといいますが、それは本能心や理性心ではその体験を処理できなかったために、霊性心が活発に働いた結果かもしれません。

霊感とは鋭い直感力のことで、幽霊が見えるといったオカルトではありません。

霊性心を発揮すると、周りの気と同調しやすくなるため、直感力が高まります。

良くないことが起こりそうな予感がすることを、虫の知らせといいますが、それも直感力によるものと考えられます。

 

生死をさまよう経験をすると、自分を個ではなく、全体の一部として捉えることができるようになります。

西郷隆盛がまさにそうで、西郷は友人で僧侶の月照を船上で斬らなければならなくなったとき、共に入水自殺することを決意しました。

そして、共に自殺を謀った西郷と月照ですが、西郷は死ぬことは叶わず、生き延びることになりました。

月照はこのとき命を落としてしまいます。

西郷は死ぬつもりだったので、これからの人生は天から与えてもらったと考えて、他人のために使うことを決意します。

その後、西郷は自分の身を顧みず、明治維新のために命懸けで行動し、明治維新後も自らの命をもって、最後となる武士の反乱を終わらせました。

個という概念がなくなれば、全の一部となり、自分の命へのこだわりを超越できるのかもしれません。

 

精神世界においては、本能心は動物、理性心は人に例えることができます。

イライラしているときは、精神世界の肉食獣が暴れ回っているのです。

人の性格は、精神世界のあらわれです。

例えば、本能に忠実で攻撃的な性格をしている人は、心の中に獰猛な肉食獣を飼っていると考えられます。

精神世界において、動物をよく手懐けて、住人が動物に振り回されないようにしなければなりません。

また、精神世界の植物は植物心にあたるので、 動物に荒らさせてはいけません。

精神世界の自然環境を守ることは、自律神経を整えることなのです。

 

霊性心を発揮すれば、霊魂が宇宙霊と同調することで、普段は眠っている潜勢力が発揮されます。

なので、普段から雑念や妄想を消して、なるべく多く霊性心を発揮するように努力しましょう。

過去の偉大な発明家たちは、潜勢力を使うことで、当時では想像もつかないほどの驚くべき発明をしました。

「空を飛びたい」という願いは飛行機によって実現され、「遠く離れた人と話したい」という願いは電話によって実現されました。

人が何かを発明して、 それ以前には存在しなかった物がこの世に現れるのは、宇宙が何かを創造することに似ています。

霊性心を発揮することによって、自分を超えた範囲の宇宙の気が動くので、信じられない発明が可能になるのです。

 

無心で物事に打ち込んでいると、 驚くほど成果が上がることがあると思います。

そのようなときは、霊性心が発揮されているので、本能心や理性心があまり使われていないのです。

だから、心が感じる疲れやストレスが軽減されます。

嫌な仕事をしているときは、本能心と理性心が煩わされるので、すぐに疲れを感じます。

しかし、趣味に没頭しているときは、霊性心が発揮されるので、あまり疲れを感じないのです。

心の中に雑念があると、霊性心が現れないので、真の力を発揮することができません。

 

これまで人類の発明を考えれば、人類に特別な力が与えられていることがわかると思います。

人類は霊性心を発揮することによって、宇宙の創造の力を使うことができるのです。

人類は創造の力によって文明を発達させ、地球の環境を大きく変えてきました。

それは、人類が広大な心の世界を開き、霊性心を発揮することによって可能になったのです。
しかし、そのような優れた心を持っていても、使い方を間違えれば、弊害をもたらすことになります。

本能に身を任せたり、理性で感情を抑えすぎると、精神に異常をきたしてしまいます。

自分の体に結ばれた本能心、理性心、霊性心という三つの糸を自在に操って、与えられた力を存分に発揮していきましょう。

14. 五種類の心

「理性心で本能心が統御できるならば、何も人生というものは苦労する必要はありゃしないんだよ」

中村天風 

 

生物は進化するにつれて、徐々に心の世界を開いていきました。

自分の心の世界を考えてみると、そこは宇宙空間のように果てがないはずです。

それは、人間の心の世界が無限大に広がっていることを意味します。

人間は心の世界に、いかなるものであっても、想像で思い描くことができるのです。

 

人類は、優れた想像力と器用な手先を使って、多様な物を作りました。

その中には、実用的な物だけではなく、芸術的な物もありました。

人間の絵を描いたり、像を作ったりすることで、人間自身を芸術で表現しようとしたのです。

人間の心の世界は、多様な物を創造し、果てがないという点で、宇宙空間とよく似ています。

もしかすると、宇宙も自分自身を表現しようとして、人間の心の世界を創造したのかもしれません。

生物が進化を繰り返すことによって、心の世界は徐々に広がっていき、人類が誕生したときに、心の世界は一応完成したのかもしれません。

 

「分かる」という言葉の語源は「分ける」であり、人間は物事を分けることによって理解できると考えました。

物事を細分化することで、科学は発展していったということができます。

心の世界を理解するために、心を五つに分けて考えてみます。


心は、物質心、植物心、本能心、理性心、霊性心の五種類に分けられます。

そのうち、物質心と植物心は、意識の上に現れません。

 

物質心は、生物だけではなく無生物も持っていて、形あるものすべてが持っています。

無生物が心を持っているというと、不思議に思うかもしれませんが、心とは気の動きを意味するので、万物が心を持っています。

物体の元となる気が、分散しないようにまとめているのが物質心です。

気体というと流れる印象が強いですが、一箇所に気をまとめることが物質心の働きになります。

太陽が、その重力によって他の惑星を引っ張っていることで太陽系が成り立つように、物質心が気をまとめているから、物体は形を保っていられるのです。

 

植物心は、すべての生物が持っていて、生きていくために必要な働きを行います。

人間でいえば、酸素を血液によって全身に届けたり、食べ物を消化して排泄したりして、恒常性を維持しています。

恒常生とは、自分の内部の環境を、外部の環境に関わらず一定に保とうとする働きです。

寒い所に行ったら体温を上げようとし、出血したら血を止めようとします。
私たちが意識しなくても、心臓や肺は動いていますが、これは植物心によって自律神経が働いているからです。

植物は本能心を持っていませんが、植物心によって呼吸や光合成をすることで、生きることができます。

 

本能心や理性心は、どちらも意識の上に現れてきて、本能や理性を生み出します。

本能心はすべての動物が持っていて、理性心は人類だけが持っています。

 

本能心は、自然界で生き延びていくために働き、恐怖や不安、怒り、喜びなどの感情や、食欲や性欲、睡眠欲などの欲求を生み出します。

視覚や聴覚、痛覚などの感覚も、本能心の働きによって感じることができます。

恐怖や不安によって、動物は危険を回避でき、怒りによって、自分に危害を加えようとする相手と戦うことができます。

また、食欲があるから必要なエネルギーを取り入れることができ、性欲があるから子孫を残すことができます。

 

動物は、欲求が満たされると喜びを感じます。

もう一度その喜びを得たいと思うことで、困難や障害に立ち向かうことができます。

また動物は、痛覚があることで、体の異常に気づいたり、危険を回避することができます。

もし痛覚を失えば、自分の不調に気づくことができず、命を落としてしまうでしょう。

 

本能心は生きていくために必要ですが、人間はすぐに本能心に振り回されてしまいます。

本能心によって、権力欲求や金銭欲求などが生まれ、それが原因で争いが起こります。

それが国同士で起これば、戦争に発展してしまう可能性もあります。

また、本能心から生まれる欲求を制御できないと、アルコール中毒やギャンブル中毒、薬物中毒などに陥ってしまう恐れがあります。

 

現代社会では、物理的に外敵と戦う必要がなくなり、強い怒りや不安は不要となりました。

誰かと戦ったり、逃げ出さなければならない場面は滅多にありません。

現代は、感情のままに生きる時代ではなく、感情を抑えながら生きる時代です。
だから、強い怒りや不安を感じても、それを抑えなければならないのですが、そのような感情を無理に抑え続けていると、精神が病んでしまいます。

現代にうつ病神経症が急増したのは、人が無理に感情を抑えていることに原因があるかもしれません。

 

理性心は人類だけが持っていて、善悪を判断することによって、本能心を抑えます。

人間が反省したり、後悔したり、落ち込んだりするのは理性心があるからです。

善悪の概念がなければ、反省したり、後悔することはありません。

また理性心によって、人は困難に耐えることができます。

困難に直面したとき、本能心は逃げ出そうとしますが、理性心が耐えるべきと判断して、本能心を抑えることができれば、人は困難に耐えることができるのです。

しかし本能心と理性心は、このように正反対の答えを導き出すことで衝突するので、悶えや苦しみを生み出します。

現代がストレス社会といわれるのは、人が理性心を働かせすぎていることに原因があるかもしれません。

 

本能心は体由来なので、体を守るために働きます。

また、理性心は心由来なので、心が納得できるように物事の正誤を判断して、本能心を抑えます。

そして霊性心は、宇宙霊の一部である霊魂由来なので、宇宙の造化を助けるように働きます。
宇宙霊から生じる霊性心は、万物を進歩向上させる力を人間にもたらしてくれるのです。

 

おすすめ書籍

中村天風「心に成功の炎を」

13. 人類の使命

「とにかく人間というものは、栄えようと思ったならば、まず何よりも根に返らなければいけない」

安岡正篤

 

植物が成長するためには、大まかに分けると二種類の力が必要になります。

枝葉を伸ばして花や果実をつける分化発展の力と、大地に根を張って幹を太くする統一含蓄の力です。

この原理は万物にあてはまるのですが、現代は文明や都市をみればわかるように、分化発展の力が過剰になっていて、その一方で統一含蓄の力が不足しています。

植物は根や幹がしっかり育つ前に、苗が徒長してしまうと、健康に育たなくなってしまいます。

徒長とは、枝や茎が必要以上に間延びしてしまうことを意味します。

建築物は土台が頑丈でないと、もし地震が起きれば、すぐに倒壊してしまいますよね。

まず重要なのは、土台となる根幹を強くすることなのです。

 

文明が発展すれば、その分地球の資源が消費されてしまうので、自然環境が汚染されていきます。

生活が便利になる一方で、その代償に自然が破壊されてしまうのです。

人類にとって根幹になるのは地球なので、科学の発展を中止してでも、自然に立ち返るべき時が来ています。

 

これまで人類以外に、地球環境を破壊したり、文明を築いた生物は他にいません。

なぜ人類は他の生物と違い、特別な能力を得ることができたのでしょうか。

その原因は、人類が何かに特化せず、専門化しなかったことにあります。

専門化すると、多様性を失ってしまい、可能性が狭まってしまいます。

人間が最も可能性を秘めているのは生まれたばかりの時です。

年を取るうちに、さまざまな選択を重ねることで、可能性が狭まっていきます。

また年齢を重ねると、肉体的な機能が落ちていき、さらに精神的な自由も失われていきます。

 

人類以外の生物について考えてみましょう。
エビやカニなどの甲殻類は、身を守るために固い殻を手に入れましたが、その外骨格のせいで成長が妨げられてしまいました。

鳥類は空を飛ぶことができますが、空を飛ぶために両腕が塞がれるので、細かい作業を行うことができません。

人類は外骨格を持たないし、空を飛べるわけでもありません。

もし人類が他の肉食獣と素手で戦うことになったら、決して生物として強い方ではないでしょう。
しかし、人類は最後まで専門化しなかったので、あらゆる可能性が残され、結果的に高い知能を獲得することができました。

そしてその知能を使うことで、人類は文明を発達させ、地球上における生物の頂点に立つことができたのです。

 

人類は特別な能力を獲得したことで、地球上のリーダー的な存在となることができました。

しかし現在、人類は地球のリーダーとしての責任を果たせていません。

人類の文明が発展しても、自然破壊が進むことで地球環境を脅かしてしまっては意味がありません。

科学の力を扱う人類には、弱い生物を守っていく義務があります。

人類は地球の一部なので、地球環境を守らなければ、本当の意味での人類の発展はあり得ないのです。

 

形ある物はいずれ壊れてしまいます。

それは、地球も例外ではないでしょう。

だからといって、それは地球の未来について考えることを放棄する理由にはなりません。
人間は生まれた時から、死ぬことが決まっていますが、それでも人生をより良くしようと、誰もが努力します。
むしろ、死ぬとわかっているからこそ、人は有意義に生きようと思うのです。

だから、私たちは地球の未来についても、自分のことと同じように考えなくてはいけません。

 

一人の人が亡くなっても、その人が生きていた事実は消えないので、周りの人に何かが残ります。

人は死んでも、想いまでが消えるわけではないのです。

強い想いは、他の人の心の中で生き続け、世代を超えて繋がっていきます。

同じように、もし地球が壊れたとしても、地球が宇宙に存在していた事実は消えないので、宇宙にその影響は残り続けるのです。

 

おすすめ書籍

安岡正篤「運命を創る」

12. 生物の進化

「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き残るのでもない。唯一生き残るのは、変化する者である」

チャールズ・ダーウィン

 

人類が誕生する以前に、地球には長い歴史があり、地球が誕生する以前にも、宇宙には途方もなく長い歴史がありました。

宇宙が誕生する以前にも、さらに長い歴史があるのかもしれません。

 

真空の中でエネルギーがゆらぎ、そのエネルギーが急速に膨張して、宇宙は誕生しました。

そしてその後、宇宙は多種多様なものを創造し、それを育んでいます。

創造と化育を合わせて造化といいます。

化育とは形を変え育てることです。

 

生物の進化は、ある特性を持った個体が持たない固体よりも多くの子孫を残すことによって、徐々に発生します。

進化は遺伝子の違いによって発生するので、個体ではなく個体群で起こります。

一匹だけが強くなっても進化とは呼べないのです。

進化が起こる要因には、自然淘汰、生存競争、適者生存があります。

食物などの資源には限りがあるので、環境に適応できる生物だけが生き残ります。

進化は、何か特別なことが起こって生じるのではなく、自然界で自然に発生します。

厳しい環境で生き残るために、生物は進化するのです。

 

進化が起こる条件の一つに、多様性があります。

多様性があると、矛盾や対立が生じて緊張状態になり、それを乗り越えるために進化が起こるのです。

多様性のない単調な環境では、進化は起こりません。

人間も挑戦をして、失敗することで、何かを学び成長していくので、張りがない単調な生活では、堕落してしまいます。
ストレスのない環境で育った動物は、生命力が育たずに早死してしまうそうです。

 

地球に最初に誕生した生物は、海の中にいる単細胞生物でした。

細胞一つの存在である細菌やアメーバは、 自分で分裂して増えることができるので、ある意味では寿命という概念はありません。

寿命が無いといっても、死なないわけではなく、生存できる環境が揃わなかったり、他の生物に捕食されれば死んでしまいます。
また、寿命が無いというと、不老不死のように感じますが、表現を変えれば、変化や成長がないということなのです。

変化がなく、ただ生きているのは、死んでいるのとあまり変わらないかもしれません。

 

生物は環境の変化に適応していく過程で、性という概念を獲得し、有性生殖を行うようになりました。

しかし、その代償に生物は寿命を持つことになったのです。
有性生殖を獲得したことで、二つの個体の異なる遺伝情報を組み合わせることができるようになったので、生物に多様性が生まれました。

そのおかげで、生物の進化が発生しやすくなったのです。

 

もし寿命がなければ、多様性が生まれなかったので、生物はここまで進化することができなかったでしょう。

そうならば、生物は絶滅していたかもしれません。

現在も単調な生物が生きているのは、生物が多様性を持っているおかげかもしれません。

環境の変化に適応するために、生物は寿命を獲得したのです。

 

人間は死を恐れ、死について悩みます。

ですが、死を悩んだところで何も変わらないし、恐怖は増していくばかりです。

死を悩む前に、まずは生についてしっかり考えなくてはいけません。

寿命は、生物が環境の変化に適応するために獲得したのであり、死は生きるために手に入れたものなのです。

だから生について真剣に考えずに、死の意味がわかることはありません。
死があるから、生物は進化できたのです。

死を恐れるあまり、生がおろそかになってしまっては本末転倒になります。

本当に恐れるべきことは、進歩向上を止めてしまうことです。

死は恐れるためではなく、進化するために存在することを忘れてはいけません。

 

生物は環境に適応するために性と寿命を獲得し、そのおかけで多様な個体が生まれ、進化していくことができました。

原核生物が核を持つ真核生物になり、一個の細胞だけでできている単細胞生物が多細胞生物となり、足に節がある節足動物が生まれ、無脊椎動物脊椎動物となり、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類、鳥類が生まれ、進化の末に人類が誕生しました。

植物については、海中の藻類がコケ類となって陸上に進出し、シダ植物が生まれ、胞子植物が種子植物となって、裸子植物被子植物が生まれました。

実際はこのように単純に進化したわけではありませんが、宇宙の造化によって、生物は進化し続けてきたのです。

この宇宙の万物は、進化と向上していくために、生まれてきたといえます。

だから、人類の生きる意味や目的も、宇宙と共に進化と向上を続けることにあります。

限りある生命を有効に使って、宇宙の造化に加わっていきましょう。
私たち生物は、原始の生命から万世一系で繋がっており、人間の体の細胞には、四十億年の進化の歴史が刻まれています。

死は、生物が未来へ向けて進化し向上していくためのバトンのようなものなのです。

11. 人間の五要素

「魂は微妙にして、微小なる粒子から成り立ち、粒子は水の流性、雲、煙よりもはるかに徴細なり」

ルクレティウス

 

人間の本質である霊魂は、宇宙霊の一部であり、人の生命を活動させる元となるエネルギーです。

エネルギーである霊魂が、心の主人であるという表現には違和感を感じるかもしれません。

確かにエネルギーである霊魂には、人格はありません。

 

人間の心と体は、神経によって繋がっています。

体中に張り巡らされた神経を通じて、心で思ったことが脳から発せられる指令となって、体中に伝えられます。

また、体が感覚としてとらえたものが、神経を通じて脳に伝わることで、心はその感覚を感じとることができるのです。

神経が心と体を繋げているのなら、何が心と霊魂を繋げているのでしょうか。

 

万物を生成する根源の気のことを精気と呼び、 人間を活動させる元となります。

また、万物に宿る精気のことを霊と呼び、精気の集まりのことを宇宙霊と呼びます。

そして心とは、精気の動きを意味します。

 

心と体が神経で繋がっているように、人間の活動の元となる精気と心を繋ぐものを、魂と考えてみてください。

魂によって人間の精気が動かされることで、心は存在するのです。

心を生じさせる元となる精気と、それを動かす魂を合わせて霊魂と呼びます。

魂とは、心と精気の間に位置するものであり、精気の動き方を決めて、心の在り方を定めます。

 

馬車で例えると、車体を引っ張る馬が体になり、その馬を操る御者が心、馬車に乗る客が精気となります。

そして、御者の操る手綱が神経にあたり、目的地を伝える客の声が霊にあたります。

客が御者に目的地を伝え、御者は手縄を使って馬に命令を出し、目的地へ馬車を走らせます。

目的地がなければ、馬車はどこにも行けないのです。

 

人間の魂は、他の動物に比べ、より宇宙真理に従って気を動かします。

だから、人間の心は他の動物よりも発達しているので、霊性心を発揮することができるのです。

人間以外の動物は、宇宙真理の中でもシンプルな生存本能の心だけを発揮することができます。

また、人間の理性心は、霊性心を発揮するために、本能心を抑える働きを持っています。

人間は複雑なルートを辿れますが、他の動物は大まかな方向に進むことしかできないのです。

また、植物は動物よりも原始的な生物なので、純粋に生きるための植物心しか持ち合わせていません。

 

困難に直面すると、「逃げ出したい」という本能と、「進まなければ」という理性が葛藤を始めます。

すると本能と理性の狭間で、心と体をつなぐ神経が不安定になり、さまざまな不調が生じます。

そのようなときは、霊性心を発揮して、心と体を導いてやらなければなりません。

魂が宇宙霊から精気を取り込み、心と体を正しい方向へ導いてくれます。


足場が悪くなると、馬は進むのを嫌がりますが、御者は何とか馬を走らせようとします。

体は本能によって苦しみから逃れようとし、心は理性によって立ち向かおうとするのです。
馬が言うことを聞かず、御者が冷静さを失ってしまえば、馬車は進むことができません。

そうなれば、客がその場で最も適切な判断をして、それを御者に伝えて実行させるしかありません。

客の声によって御者を導くのです。

 

本能や理性は、時と場合によって態度が変わります。

本能は損得勘定で態度が変わり、理性はそのときの価値観によって態度が変わります。

しかし、霊魂だけは常に同じ態度を取ります。

なぜなら霊魂には善悪の概念がなく、常に宇宙法則に従うからです。

霊魂は宇宙法則から外れることがないので、間違えることがありません。

宇宙は常に完全を目指し、進化と向上を続けます。

 

霊魂は、宇宙霊の一部であり、本能や理性が進む方向を間違えれば、それを正してくれます。

私たちの求める不変の存在は、常に私たちの中にあるのです。

困難に直面したときには、宇宙の声に耳を澄ませてみましょう。

 

人間以外の動物は理性を持っていないので、種を守ること以外に、険しい道を選ぶことはありません。

しかし、人間は理性を持っているので、自ら険しい道を進むことができます。

でも、そのとき本能と理性による葛藤が生じるので、苦しみが生まれてしまいます。

だけど、人間には霊魂があるので、霊性心が進むべき道を示してくれます。

人は困難を乗り越えていく力を持っているのです。

10.宇宙の視点

「あなたが悩んでいる問題は本当にあなたの問題だろうか。その問題を放置した場合に困るのは誰か、冷静に考えてみることだ」

ルフレッド・アドラー

 

心や体は、霊魂の道具なのですが、それを忘れて、心や体に主導権を譲ってしまうと、怒りなどの感情や痛みなどの感覚にとらわれて、正常な判断ができなくなってしまいます。

心と体をうまくコントロールするために、自分の本質が霊魂にあることを忘れないようにしましょう。

人形遣いが糸と人形を見るように、客観的に自分の心と体を観察して、冷静さを失わないようにしましょう。

観察するときは、広く、深く、長くを心がけて、大きく対象をとらえるようにしましょう。

何かに気を取られて、狭く、浅く、刹那的に対象をとらえれば、判断を誤ってしまうかもしれません。

宇宙の視点から自分を観察するつもりで、客観的に自分の状態を把握しましょう。

 

心に雑念が浮かんでいると、意識がどこか遠くへ飛んでいき、心と体の調和が乱れてしまいます。

御者が手綱を手放せば、馬は勝手に走り出すかもしれません。

すぐに雑念を消して、主導権を心や体に譲らないようにしましょう。

人形遣いが、糸や人形と一体になって、人形劇に臨むように、私たちも、心と体を統一して、物事に臨みましょう。

 

心と体を観察するときは、どちらか一方に気を取られないように注意しましょう。

人形遣いは、人形だけでなく糸の動きも把握しておかなければなりません。

車でカーナビを利用することに例えてみましょう。

カーナビを見ないで運転すれば、当然道に迷ってしまいますが、カーナビに気を取られてしまうと、前方不注意で事故を起こしてしまうかもしれません。

運転をしながら、所々でカーナビを確認すれば、事故を起こすことなく、目的地へ辿り着くことができます。

普段生活しているときも、現実の世界に意識を集中させながらも、所々でカーナビを確認するように、自分の心を確認するようにしましょう。

 

体は視覚でとらえられるし、体に何かが触れれば感覚として感じることができるので、心に比べて体は容易に観察できます。

しかし、心は肉眼では見えないし、怒りなどで冷静さが失われれば、心を客観的に観察することは容易ではありません。

だから、まず心を客観的に観察する癖をつけましょう。

そうすれば、心が怒りなどの感情に振り回される頻度が減るはずです。

 

自分の心を客観視できていないと思ったら、人形劇を思い出して、人形遣いの視点になったつもりで、糸を見るように、自分の心を観察してみましょう。

三者の視点で、自分の心をとらえることで、絡まりそうになった糸をうまく解いてやりましょう。

 

怒りや悲しみ、不安といった消極的な感情は、現実に体の細胞を壊していきます。

消極的な感情を持っていると、ストレスホルモンであるコルチゾールが分泌されて、体の細胞を傷つけてしまうのです。

また、怒りは炎症反応を促進したり、血圧を上げるので、脳卒中などの命の危険に関わることもあります。

怒った人間の吐息の沈殿物は栗色になるそうで、それを水に溶かしてネズミに注射したところ、ネズミは数分で死んでしまったそうです。

消極的な感情は毒であることを肝に銘じて、自分で自分を傷つけるような、愚かなことをしないように気をつけましょう。

 

困難に直面すると、消極的な感情が浮かんできますが、それを感じているのは、霊魂ではなく心なのです。

心がショックを受けているから消極的になっているだけであり、心が大したことないと思えば、消極的な感情は消えてしまうのです。

当たり前のことのように感じるかもしれませんが、すべては心一つの置きどころなのです。

心が制御不能になって、暴走列車のように走り出す前に、冷静さを取り戻しましょう。

馬が暴れ出したら、騎手が馬を制するのは当然のことです。

そのためにも、所々で自分の心を客観的に観察する癖をつけましょう。

 

他人にどう思われようと、また自分が自分をどう思おうと、自分の本質は決して変わりません。

判断する自分も、判断される自分も、どちらも自分の心なのです。

心は道具であって、その場に合わせて変わっていきます。

だから、他人の目も、自分の目も気にする必要はなく、そのような不確かなものに、人生を左右されてはいけません。

霊魂は何があっても、決して変わることがないのですから。

 

心や体を自分自身だと勘違いして、そこに大きな自我をつくってしまい、馬鹿にされた、プライドを傷つけられたなどと憤るのは愚かなことなのです。

心や体はただの道具なのであって、それほどの価値はありません。

9.人形と糸と人形遣い

「人間の背後には、人間が何を欲するにも、また何を人知れず思うにも、その一切を現実の形として現そうと待ち構えている宇宙霊が控えている」

中村天風

 

体と心と霊魂の役割の違いを、中世ヨーロッパの人形劇で使われていた「あやつり人形」に例えて、考えてみましょう。

 

まず、人間の体が人形本体にあたります。

そして、心が人形に繋がった糸にあたり、霊魂が糸を操る人形遣いにあたります。

人形という目に見える物体と、観客からは見えない人形を動かすための糸と、劇場の上から糸を操る人形遣いという三つの要素で、あやつり人形は構成されています。

 

人間の体の病が、人形が故障して思うように動かない状態にあたります。

そして、心の病気が、糸が絡まって人形がうまく操れない状態にあたります。

気の病と書いて病気であり、体には異常がありません。

糸も人形も、手入れをすれば修理できますが、形がある物なので、いつかは壊れてしまいます。

同じように、人間はいつかは死んでしまうので、心も体もいずれ消えてしまいます。

しかし、人形の手入れをするように、健康に気をつければ、人間は長生きできるかもしれません。

 

人間を動かすエネルギーである霊魂は、人形劇の舞台の上で、人形を操っている人形遣いにあたります。

糸を上手く操らなければ、人形遣いは思うように人形を動かせないように、心を上手く操らなければ、体は思うように動いてくれません。

糸がもつれてしまえば、人形遣いは糸に神経を使うことになり、人形の動きは不自然になってしまいます。

人間も怒りによって冷静さを失ってしまうと、思うように体が動かなくなってしまいます。

人形を動かすのは、糸ではなく、人形遣いであって、人間を動かしているのは、心ではなく、霊魂なのです。

 

人形の動きを見れば、人形遣いがどのように糸を操っているか予想できます。

同じように、人間も脳波を測れば、心がどのような状態なのかある程度予測がつきます。

心の状態は目に見えるかたちとなってグラフにあらわれるのです。

人が焦っているときは、心が焦っているだけで、糸がもつれているようなものなのです。

人形遣いである霊魂は、エネルギーなので焦ることがありません。

自分の本質を心だと考えることは、糸が人形を操っていると考えるようなもので、人形遣いにとって、糸も人形も道具にすぎません。

 

人間は感覚や感情を持つので、自分の本質を心と勘違いしやすいです。

しかし、糸は人形を操るためにあるように、心は体を動かすために存在するのです。

人形劇の目的は、人形遣いが人形を使って、観客を楽しませることにあり、糸はそのための道具です。

人生の目的は、霊魂が人間の体を使って、自分の役割を果たすことにあり、心はそのための道具なのです。

 

人形が壊れてしまっても、新しい人形を作れば、人形劇を再演することができます。

肉体が滅んでも、そのエネルギーは新しい生命となって、また活動を始めるかもしれません。

 

人生は、一度きりの人形劇のようなものです。

糸が切れてしまっても、途中で張り替えることはできないし、人形が故障してしまっても、途中で交換することはできません。

トラブルに愚痴をこぼしても、事態は改善するどころか、悪化していくばかりです。

トラブルが起こっても、劇を中断することはできないし、劇が終わってしまえば、もう次の劇はありません。

終演後に、次の劇に向けて反省することはないので、劇を演じながら、改善していくより他はないのです。

 

一度きりの劇を成功させるためには、自分の使い方を間違えてはいけません。

自分に合わないことをやっても、うまくいくはずないのです。

ロールプレイングゲームをするときに、魔法使いに剣を装備させて、最前線で戦わせてもうまくいきません。

あなたの体が魔法使いだったなら、プレイヤーである霊魂は、心というコントローラーを使って、魔法を使って戦わせないといけません。

「戦士が良かった」と悔やんでも、あなたの体を他の誰かと取り換えることはできないのです。

魔法使いには魔法を使わせて、そのキャラクターを活かすように、自分の特徴を理解して、自分を最大限に活かしましょう。

自分に与えられた特性を活用して、ベストを尽くしましょう。

8.心と体と霊魂

「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば、生まれぬ先の父ぞ恋しき」

一休宗純

 

万物の源となった宇宙の莫大なエネルギーを宇宙霊といいます。

霊とは、万物の源となるエネルギーのことです。

宇宙霊から受け取った人間の心と体の元となるものを霊魂といいます。

魂とは、生物の中に宿り、心の働きをつかさどるものです。

インド哲学では、宇宙霊をブラフマン、霊魂をアートマンと呼びます。

霊や魂というとオカルトのようで、拒絶反応が出る人がいるかもしれませんが、宇宙の源を宇宙霊と呼び、人間の元となるエネルギーを霊魂と呼ぶだけです。

 

何かを思いつくことをアイディアが浮かぶといいますが、アイディアはギリシャ語のイデアという言葉から生まれました。

そして、イデアは見るという動詞イデインに由来しています。

古代ギリシャの哲学者プラトンは、イデアという言葉で、肉眼で見える物ではなく、心の目で見えるもの、言い換えれば、精神の世界で感じることができる物事の原型をあらわしました。

つまり、私たちが何か考えるとき、それと同時に目には見えないエネルギーが動いていて、心が動くとき、同時に気が動いているのです。

 
人間の本質は宇宙からもらったエネルギーであり、宇宙霊の一部である霊魂になります。
肉眼で見える体は、霊魂がこの世界で活動するための乗り物にすぎません。
動物によって目に見える世界が違うことがわかっており、人間の視覚が真実をとらえているとは限りません。
私たちが普段目にしている自分の体も、視覚でそのように認識されているだけで、本当は細かい粒子の集まりなのです。
視力が落ちるだけで、物の見え方は変わるし、見間違いをすることは誰にだってあります。
私たちが認識している体は、仮の姿であって、真実の姿ではないのかもしれません。
 
霊魂がこの世界で活動するためには、乗り物である体を動かすためのコントローラーが必要になります。
それが心であり、心も霊魂の道具にすぎません。
心は気の動きをあらわすものであって、心が体の主人というわけではないのです。
馬車に例えるなら、車体を引く馬が体で、それを操る御者が心で、車体に乗った客が霊魂になります。
馬車は客を目的地へ運ぶことが仕事であって、馬や御者のためでなく、客のために走ります。
同じように、私たちの心や体は、霊魂を目的地へ運ぶための道具にすぎないのです。
 
科学に偏った教育を受けてきた現代人は、科学で証明できないものを受け入れることが容易ではありません。
人間の本質が霊魂だといわれても、それが電子顕微鏡などで観察できないかぎり、嘘だと決めつけてしまうのです。
しかし、最近になって発見された素粒子があるように、科学で解明されていないことは数多くあります。
つい数百年前まで、地球の周りを天が回っていると本気で考えられていたのです。
非科学的だと思われていた五行説は、現代の漢方医学でも用いられ続けています。
だから、受け入れがたいかもしれませんが、いったん批判的な気持ちは捨てて、まっさらな気持ちで読んでいただけると幸いです。
重要なのは、科学で証明できるかではなく、真理と一致するかどうかなのです。
 
霊魂や宇宙霊に対する考え方が事実とは異なっていたとしても、そのようなものはないと決めつけることのほうが、真実とはかけ離れている可能性があることを考えてみてください。
真実とは、どれだけ真理に近いかで考えなければなりません。
化学で照明されてないものは存在しないと考えることは事実かもしれませんが、真実ではありません。
この世界が崩壊しないことからも明らかなように、万物は進歩向上するようにできています。
もし万物が退廃堕落するようにできていれば、この世界は崩壊しています。
だから、科学で証明できないことを疑うことよりも、信じることのほうが人生がより良くなるなら、そちらのほうが真実に近いと思うのです。
科学で証明されたことを金儲けのために話す人よりも、事実とは違うことでも世の中のためを考えて話す人を、私は推したいのです。
過去の偉人たちの話したことが、事実とは違っていたとしても、多くの人を救ってきたなら、それは真実といえるのではないでしょうか。
 
おすすめ書籍
中村天風「心を磨く」

7.人間の本質

「自分は体はもちろん、心よりも超越した存在であることを自覚せよ。体も心も道具にすぎないのだ」

 中村天風 

 

私たち人間の正体、言い換えれば人間の本質とはいったい何なのでしょうか。

人間の本質とは、これがなければ人間は人間ではないというもののことです。

人間らしいものといえば、喜怒哀楽を感じたり、ものを考えたりする心が浮かびます。

それならば、心が人間の本質なのでしょうか。

しかし心は、脳が働くことによって動いているので、もし脳がなくなれば、心は消えてしまいます。

それならば、脳は体の一部なので、体がなければ心は存在できないことになります。

そうなると、心が人間の本質とはいえません。

 

私たちが普段見ているテレビ番組は、テレビが電波をキャッチすることで、映像が液晶に映し出されます。

しかしだからといって、「テレビの正体は電波だ」とはならないですよね。

心はテレビにおける電波のようなもので、体を動かすために存在しています。

つまり、心は体を動かすための道具なのです。

 

人類が、ここまで文明を発達させられたのは、他の動物に比べて脳が発達したことによります。

脳が発達したことによって、人間は他の動物とは比較にならないほどの高い知能を獲得し、複雑な思考をすることが可能になりました。

 

では、心が人間の本質でないとすれば、目に見える体が人間の本質でしょうか。

もしそうならば、人間の本質は物体ということになり、人間は、体を維持するために生きているということになります。

そう考える人もいるかもしれませんが、それではなぜ人間は進化の末に理性を得たのでしょうか。

人間は、理性があることによって、善と悪の判断ができるようになりました。

人間の本質がただの物体なら、他の動物と同じように遺伝子を残すことを目的に、本能だけで生きれば良いはずです。

しかし、人間には理性があるので、「自分が生きているなら、あとはどうでもいい」とか、「地球環境が破壊されようが、自分には関係ない」とか、そのようには考えられないはずです。

自分とは直接的に関係のない人たちのことであっても、その人たちが悲惨な環境に置かれているのを見れば、胸が痛みます。

他人のために命がけで行動する人は、自分にとってはマイナスだとしても、そうすることが正しいと思って行動するのです。

そのように、正義のために行動できる人間の本質が、ただの物体だとは思えません。

もし人間の本質がただの物体なら、人間はただ生きるだけの存在になるので、それでは人生に救いがありません。

では、人間の本質は、心や体以外の何かなのでしょうか。

 

人間がどのようにつくられるのか、考えてみましょう。

人間をつくる材料は、その人が生まれる前から、この地球上に存在していたものです。

新しい人間が生まれるからといって、神様が新たにこの世界に、材料を提供してくれるわけではありません。

宇宙のエネルギーの総和は一定で、変わりません。

宇宙の目線からみれば、人間の生死というものは、地球の細胞が入れ替わっているだけにすぎないのです。

一人の人間の生死が、地球という一つの生命体に大きな影響を与えることはありません。

長い地球の歴史から考えれば、一人の人間の生死は、ほんの一瞬の出来事でしかありません。

 

人間の一生の背後には、地球の長い歴史があり、地球の歴史の背後には、宇宙というさらに長い歴史があります。

同じように、一つの細胞の誕生の生死の背後には、人生という歴史があります。

一人の人間の生死が、宇宙のエネルギーの総和に影響を与えないなら、人間の本質は、心や体を超えたもっと大きな何かなのかもしれません。

人類が誕生する前にも、多くの生物の歴史があり、生物が進化と絶滅を繰り返した末に、人類は誕生したのです。

 

人間はこの宇宙から生まれ、宇宙に還っていきます。

そして、その宇宙のはじまりは、莫大なエネルギーでした。

ということは、宇宙から生まれた人間の本質は、エネルギーなのではないでしょうか。

この宇宙の万物は一つのエネルギーから生まれ、そのエネルギーは無から生じたものです。

つまりこの世界の万物は、無から生じた一つのエネルギーが形を変えたものなのです。

 

宇宙と人間を一括りにするのは、想像しづらいかもしれません。

しかし、 地球上で人間の生死が繰り返されているように、 人間の体の中では、細胞の生死が繰り返し行われています。

同じように宇宙の中では、星の誕生と死が繰り返されているのです。

時間の長さや物体の大きさの規模が違うだけで、同じことが起こっているといえます。

地球上のすべては、地球という一つの物体の細胞だと考えられるし、宇宙のすべては、宇宙という一つの物体の細胞と考えることができます。

人間の体と細胞を分けられないように、地球と人間も分けることができないし、宇宙と人間も分けることができないのです。

6.人間と地球

「人間は大宇宙の中の小宇宙である」

アーユルヴェーダ

 

人間の生命は、臓器など多種多様なものが共同作業をすることによって成り立っています。

脳は、司令塔の役割をしていて、 全身から情報を受け取り、全身に命令を出します。

肺は、人間が生きるために不可欠な酸素を取り入れます。

心臓は、ポンプの役割をすることで、酸素を血液に乗せて全身に送り届けます。

人間は、呼吸によって酸素を取り入れて、グルコースを分解して、エネルギーをつくりだします。

胃や腸などの消化器官は、口から入ってきた食物を消化・吸収します。

また、肝臓は有害物質を分解したり、消化に必要な胆汁を作ったり、エネルギーを代謝したり、蓄えたりします。

腎臓や大腸は、体に不要な物を体外へ排出します。

 

人間の体には、脊髄を中心に全身に神経が張り巡らされており、脳は神経を通じて全身とやり取りをしています。

脊髄は、背骨である脊椎に取り囲まれています。

また人間の体は、体の働きを調節するホルモンや神経などの働きによって、外部の環境に関わらず、体の状態を一定に保とうとする恒常生が維持されています。

体温の恒常性があるから、寒い所に行けば、体温が上がるし、暑い所に行けば、体温が下がるのです。

もし体温の恒常性を失えば、人間は寒い所に行くだけで、凍え死んでしまいます。

恒常性のおかけで、人間は環境の変化に対応することができるのです。

 

地球も人間と同じように、多種多様なものが共同作業をすることで成り立っています。

オゾン層は紫外線から生物を守り、植物は動物が生きるために必要な酸素を作り、微生物は生物の死骸や排泄物を分解することで、地球の環境を整えてくれます。

 

見方を変えると、地球を大きな一人の人間と考えることができます。

逆に、人間を小さな地球のように考えることもできます。

オゾン層は皮膚を守る毛髪のようだし、植物は呼吸するために必要な肺のようです。

また、微生物は食物を消化・吸収する胃腸のようです。

 

古代中国で生まれた五行説では、 万物は木・火・土・金・水の五種類の元素から成り立つと考えられていました。

木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ずといって、相手を強めると考えられています。

また、水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝ち、木は土に勝ち、土は水に勝つといって、相手を弱めると考えられています。

そして、それぞれの元素を、肝臓・心臓・脾臓・肺・腎臓に当てはめて五臓とし、漢方などの東洋医学が作られました。

それぞれが互いに協力してバランスを調えることで、自然界や人間の体は保たれているのです。

他にも、それぞれの元素を季節や感情、徳など、さまざまなものに当てはめることができます。

 

地球も人間も多種多様なもので構成されていて、それぞれを助け合うことで、調和が保たれています。

人間は、地球の一部ともいえるし、細胞や粒子の集まりともいえます。

本来、そこに境目はなく、人間が勝手に分けて考えているのです。

植物と人間を分けて考えることは、 肺と心臓を分けることや、太陽と地球を分けて考えることと変わらないのかもしれません。

5.奇跡の惑星

「空はとても暗かった。一方、地球は青みがかっていた」

ユーリイ・ガガーリン

 

地球という惑星は、太陽系の中心にある太陽の周りをまわっています。

太陽は高温の恒星で、直径は地球の百倍以上あり、太陽系の質量のうちのほとんどを占めています。

物体の質量が大きければ大きいほど、周りを引っ張る引力は大きくなるので、質量の大きな太陽が周りの星を引っ張ることによって、地球や火星などの惑星は、太陽の周りを公転しています。

 

太陽系が属している天の川銀座は、無数にある銀河のうちのひとつで、銀河系とも呼ばれます。

天の川銀座には、太陽のような恒星が他にも数多く存在しますが、地球以外ではまだ生物が発見されていません。

天の川銀河を一人の人間に例えてみると、天の川銀河が体全体になり、太陽系などの惑星系が臓器にあたり、無数にある星が細胞にあたります。

そして、天の川銀河などの銀河は二兆個は存在するといわれているので、地球上の人類の数より多いことになります。

太陽は大きなイメージがありますが、他の恒星に比べて特別に大きいわけではなく、平均的な恒星です。 

ここまでの話だと、地球は特別な環境にあるわけではなさそうですが、なぜ地球以外に生物が発見されていないのでしょうか。

 

生物が生きるためには、惑星に水分子が液体の状態であることが必要不可欠になります。

惑星と太陽の距離が近すぎると、太陽の熱で惑星の地表の水は蒸発してしまいます。

逆に距離が遠すぎると、熱が足りず、地表の水は凍ってしまいます。

地球は太陽との距離が、遠すぎず、近すぎず、ちょうど良い距離だったため、地表の水分子が液体の状態で存在することができました。

寒くもなく、暑くもない、ちょうど良い温かさだったため、地球には海が存在しているのです。

 

約五十億年前、宇宙空間に漂っていたちりやガスが円盤状に集まることで、中心に原始の太陽が誕生しました。

渦の中心の密度が高くなり、温度が上がると、核融合反応が起こり、私たちの知る太陽となりました。

そのとき、太陽の周囲にたくさんの微惑星ができ、その微惑星が衝突・合体を繰り返すことで、四十六億年前に地球が誕生しました。

その衝突のエネルギーで、 地球の表面は岩石が溶けたマグマの状態になり、重い鉄やニッケルは沈み核となりました。

 

地球の中心にある核の温度は、太陽の表面温度とほぼ等しいといわれています。

その熱によって、地表の水は蒸発して、水蒸気となって空中へ浮かんでいきます。

そして、水蒸気は空気中で冷やされることで、小さな水の粒となります。

外の温度が低いときに、窓ガラスの内側に水滴がつくのと同じ現象ですね。

そして、その粒が空気中に浮かぶ、ちりの周りに集まることにより、雲ができます。

雲の中の水同士が、くっつき合うことで重くなり、空に浮かんでいられなくなると、水は雨となって地表へ落ちていきます。

このようにして、地球上の水分子は循環しているのです。

 

地球の表面にあるマグマに、雨が降り注ぐことで、その熱は奪われ、地表の温度は徐々に下がっていきました。

水分は蒸発するときに、周りの熱を奪っていきます。

そして、冷やされたマグマは固まって地殻となり、その上に雨が降り注いで、海が誕生しました。

地表が固まった後も、核の内部では、放射性物質がエネルギーを発しており、それによって地球の内部は高温で保たれているので、マントルがゆっくりと流れています。

 

誕生したばかりの海は酸性だったので、生物が生存できる環境ではありませんでした。

地球内部から吹き出た塩素ガスが、雨と一緒に海に溶け込んだのです。

しかし、地表の岩石に含まれていた、ナトリウムやカルシウムが、徐々に海に溶け出していったことによって、酸性の海は中和されていきました。

塩酸と水酸化ナトリウムを混ぜて、中和する実験を理科の実験でやりましたよね。

そして、大気中の二酸化炭素や窒素が海に溶けて出し、そこに雷や太陽の紫外線によるエネルギーが加わることで、アミノ酸核酸などの有機物が生まれました。

この時の海は、アミノ酸たっぷりの生命のスープといわれる状態だったのです。

アミノ酸はタンパク質のもとになり、核酸は生物をつくる設計図になります。

そして、遂に海中に生物が誕生しますが、地表には生物にとって有害な太陽の紫外線が降り注いでいたので、生物はまだ地上に進出することはできませんでした。

 

海中の植物は、有機物を作るために、光のエネルギーを化学エネルギーに変換する光合成を行う必要がありました。

植物は光合成によって、光と二酸化炭素と水から有機物と酸素を作り出したので、空気中の二酸化炭素が徐々に減っていき、酸素が増えていきました。

そして酸素が、太陽の紫外線と化学反応を起こすことで、オゾンが発生し、オゾンが地球の上空の成層圏に集まることで、生物にとって有毒な紫外線を吸収してくれるオゾン層となりました。

オゾン層によって、生物は陸上でも紫外線を避けることが可能になったのです。

そして、生物は陸上へと進出しました。

 

海には、多種多様な物質が存在していたので、生物は誕生し、進化することができました。

そして、その後長い時間をかけて、生物は進化を繰り返し、ついに私たち人類が誕生します。

私たち人類が地球で生きていることは、地球が数々の条件を運良くクリアしたおかげであり、奇跡的なことなのです。

4.人類の還る場所

「竹切れで水を叩くと泡が出る。その泡が水の表面をフワリフワリと回転して、無常の風に会って、またもとの水と空気にフッと立ち帰るまでのお慰みがいわゆる人生というやつだ」

杉山茂丸

 

人類が生息している地球は、太陽を中心とする太陽系の中にあり、太陽系は天の川銀河に属しています。

そして宇宙には、他にも無数の銀河があるといわれています。

宇宙という大きな目線から考えると、地球の属する太陽系はほんの一部にすぎません。

 

私たち人間は、多くが水分で、他にタンパク質や脂質で構成されています。

細かくみれば、人間は皮膚や筋肉、骨、臓器、血液などで構成されています。

さらに細かくみれば、それらはいくつもの細胞でつくられています。

また元素レベルで考えると、酸素、炭素、水素、窒素なとが大部分を占めていて、他にも、カルシウムやリンなどが含まれています。

そして、それらの元素は粒子でつくられていることがわかっています。

 

では、人間の正体は粒子でしょうか。

この宇宙の万物は、生命のあるなしに関わらず、粒子でつくられています。

もし人間の正体が粒子なら、人間は宇宙の万物と本質的には同一の物体ということになり、宇宙の一部であると考えることができます。

それはまるで、細胞が人間の一部であることようです。

 

宇宙ができる前は、プラスとマイナスの粒子がぶつかり合って、結果的にゼロになっている無の状態でした。

プラスとマイナスが相殺して無になっているだけで、目に見えないところでは、活動が起こっていたのです。

あるときその均衡が崩れ、そこに発生した真空エネルギーがゆらいだことにより、極小の宇宙が誕生します。

そして、顕微鏡でも見えないほどの極小の宇宙が、ほんの一瞬で、一センチほどに急激に膨張することで、エネルギーが放出されました。

それによって宇宙は、超高温・超高密度の火の玉となり、それが大爆発することで、光を含む大量の素粒子が生まれました。

この世界の物質をバラバラにしていって、これ以上分けることができない最小の粒子を、素粒子といいます。

また、極小の宇宙が急膨張することをインフレーションといい、火の玉が大爆発することをビッグバンといいます。

その後、宇宙は大きく膨張しながら冷えていき、その過程で素粒子が集まって、陽子や中性子ができました。

そして、陽子と中性子が集まって原子核となり、宇宙に飛び交っていた電子と結合して、原子ができました。

宇宙は、今も膨張を続けているといいます。

 

人間は宇宙の一部であり、宇宙は無から誕生しました。

ということは、人間も無から誕生したと考えられます。

宇宙の誕生は百三十八億年前といわれています。

宇宙の長い歴史から考えれば、一人の人間の人生は一瞬にすぎません。

水から泡が生まれ、それが弾けて、水と空気に戻っていくようなものかもしれません。

泡が消えた後も、水と空気の量は変わりません。

 

人間も泡のように、この世界から生まれ、死んでしまった後も、この世界のエネルギーの総量は変わりません。

人間は無から生まれ、無に還っていくのです。

無に実体はありませんが、そこにはエネルギーが存在していて、その流れがあります。

宇宙という視点から考えれば、人間の一生とは、エネルギーのゆらぎのようなものかもしれません。

 

人間は無から生まれたはずなのに、無を恐れます。

それは動物の本能なので、仕方がないのかもしれませんが、必要以上に死を恐れていると、精神に悪影響を及ぼしてしまいます。

死の恐怖は、不安や怒りなどのさまざまな苦しみを生むのです。

 

生と死は切り離せません。

人間は、永遠に生き続けることができないのです。

どんなにあがこうとも、人間は必ず死にます。

死を必要以上に恐れて、苦しみを増していくよりも、生きている間は、人生を楽しみましょう。

人類にとって、無は切っても切り離せない存在であり、生まれ故郷であり、還る場所でもあるのです。