「西洋は物事を細分化し、分析し、因果律を見出そうとする。一方、東洋では物事を総合的かつ統合的に、様々なものを含蓄しようとする」
西洋と東洋にはそれぞれ特徴があり、物事の考え方についても違いがあります。
西洋は分化発展的で、外にベクトルが向く傾向が強く、逆に東洋は統一含蓄的で、内にベクトルが向く傾向が強くなります。
西洋は寒くて、環境的に厳しい地域が多く、生きるのが困難だったため、自然を克服しようとして、早くから技術面が発達しました。
西洋に比べ、東洋は暖かく恵まれた環境が多かったので、心の内面に関心が向けられ、早くから思想面が発達しました。
次に、東西の宗教観を比べてみましょう。
世界の創造主のことを、西洋ではゴッドと呼び、東洋では天と呼びます。
ゴッドとは、創造主が擬人化されたものあらわすので、西洋は物事の基準を人に置いていることがわかります。
一方、天とは、創造主を自然の延長上に見出したものなので、東洋は物事の基準を自然に置いていることがわかります。
人は死んだら天国や地獄へ行くといわれますが、これは人の霊魂が形を保っていられなくなって、宇宙霊に還ることのたとえと考えられます。
創造主の考え方に違いはありますが、この点では西洋と東洋は似たような考え方をしているようです。
生命の生まれ変わりである輪廻についても、洋の東西を問わず信じられています。
科学的に考えても、エネルギーは循環するので、生命の死は、新たな生命へと繋がっていると考えることができます。
キリスト教では、自分の侵した罪を許してもらうため神に祈ります。
仏教では、苦しみの原因である煩悩を消すために、坐禅を組んで瞑想します。
一見まったく違うことをしているようにみえますが、どちらも苦しみから逃れるために、精神を統一して、心を安定させようとしていることがわかります。
古くから、雑念を消すことが、精神に良い影響をもたらすとわかっていたのでしょう。
キリスト教では、人間は神に似せて造られたと考えられています。
また東洋では、人間は自然の一部だと考えられています。
なのでどちらでも、人間は造物主の延長上の存在として考えられているようです。
東洋では、天を自然の延長上の存在として認識しているので、人間は天の一部であると考えることができます。
かつて日本では、万物に神が宿っていると考えられていました。
人間を含む万物が天の一部であり、その中に神が宿っていると考えられていたのです。
現代に伝えられている宗教は、聖人の弟子たちが教えを後世へ伝えるために、文字によって記録されてきたものです。
それが何代にも渡って伝わることで、いつしか聖書や経典が誕生しました。
苦しみから逃れて、心を安定させるための教えであるという点は同じだったのに、時代が経つにつれ、それぞれの宗教は、似ても似つかないものとなってしまいました。
未知への恐怖心や、他の宗派への競争心によって、宗教は教えの内容よりも、儀式などの形式が重んじられるようになってしまったのです。
キリストも釈迦も孔子も、私利私欲をなくして、謙虚に生きることを説いていました。
これは言い換えれば、不要な本能心を消して、霊性心をなるべく発揮して生きるということになります。
キリストは隣人愛を説き、釈迦は自我を捨てるよう説き、孔子は公のために生きるよう説きました。
これらはすべて「自分という殻を捨てる」と言い換えることができます。
自我の殻を作ってしまうと、自分に対するこだわりが生まれ、それが苦しみとなってしまうのです。
その殻を捨てて、無我になることができれば、苦しみは消え、心に平穏が訪れます。
それを仏教では涅槃に至るといい、儒教ではそのような人を聖人と呼びます。
すべての苦しみの原因は、知らぬ間に作り上げた自我の殻にとらわれてしまうことなのです。
現代の世界では、自然を征服する対象として考える西洋の考え方が主流となっています。
その理由は、自然と共に生きるという東洋の考え方よりも、便利で快適な生活ができるからです。
またいざ戦争になれば、東洋的な考え方では、西洋的な考え方に太刀打ちできません。
歴史とは、勝者の目線から語られたものであり、敗者は勝者に従わなくてはなりません。
いくら文明が進歩しても、戦争が起これば、人間の世界は弱肉強食になります。
丸腰の状態で拳銃を突きつけられれば、相手の言うことを聞かざるをえません。
原始時代のように「強者こそ正義」という考えでは、科学兵器が次々と開発されていくことになります。
それでは、地球の自然が破壊されていき、終いには人類が地球に住めなくなってしまうかもしれません。
現代は、西洋的な考え方に偏っているので、東洋的な考え方を取り入れて、 自然と共に生きることを学ばなければなりません。
日本の神社は、山の中や麓にあることが多いのですが、それは日本人が自然そのものを神と考えていたからです。
四季折々の美しい景色を鑑賞できる日本では、自然は感謝の対象でした。
木造建築やイグサで作られた畳、陶器の茶碗などからわかるように、日本文化は日常的に自然と触れ合うようできています。
西洋は東洋に比べて、過酷な環境だったため、自然は感謝する対象ではなく、克服する対象でした。
文明を発達させ、自然を征服することで、人間中心の社会をつくっていきました。
石や土、砂などを加工して住居を造り、自然と居住スペースを切り離して生活をしました。
科学技術が発達することによって、現代ではいかなる環境でも暮らしていけるようになりました。
今の地球は、かつての西洋人が目指した世界になっているということができます。
西洋人は自我の意識が明瞭であり、個人主義なので、権利の観念が自ずと明確になります。
しかしそれでは、衝突が起こるので、社会生活を行うために、協力体制が作られ、義務の自覚が明らかになりました。
なので、西洋は構成的であり、理性的であり、論理的になります。
東洋人は、西洋人よりも没我的であり、大いなる尊いものに憧れを持ち、その理想の中に自分を没入し、そこに自分を発見します。
だから、家や国のために容易に命を捨てて、尽くすことができるのです
これは誤れば、偶像礼拝的になってしまいますが、上手くいけば理想的になり、理性よりも情緒が発達します。
なので、東洋は没我的であり、情緒的であり、感情的なのです。
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